上杉鷹山とは 名言にみるその生涯「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

上杉鷹山とは その名言と生涯

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

この名言を聞いたことはあるでしょう。しかし、誰の言葉かはほとんど知られていません。これは江戸中期の米沢藩主「上杉鷹山(ようざん)」の残した言葉です。

藩主といっても当時の米沢藩(山形県)の財政は破綻寸前でした。逆によく江戸の中期までもったといえるほどです。なぜ、米沢藩がそのような状況に陥ったのか?そして、上杉鷹山とはどのような人物なのか、その生涯をご紹介します。

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戦国時代の名将・上杉謙信が死去すると、上杉氏は豊臣秀吉の命により、会津藩(福島県)に120万石、米沢藩に6万石の知行(領地)を与えられます。そのことで、上杉氏は故郷の越後(新潟県)を離れ、新天地での領国経営に臨みますが、秀吉の死後は状況がガラリと変わりました。

上杉氏2代当主・上杉景勝(かげかつ)と同格のはずだった徳川家康が、勢力を強めていったのです。結果、上杉氏は関ヶ原の合戦に参戦しないどころか、家康に反発したため、討伐寸前にまで追い込まれました。直前に「石田三成挙兵」の知らせを受けた家康が、軍を関ヶ原に向けたため助かったのです。しかし、家康が天下人となったことで、上杉氏には厳しい処分が待っていました。

お家存続は認められましたが、国替えにより米沢藩30万石へ減封となったのです。

しかし、石高が4分の1になっても、景勝は家臣たちを解雇しません。約6,000人の家臣たちを財産と考え、厳しい財政状況でも解雇しませんでしたし、家臣たちも上杉氏に仕えることを誇りとして離れなかったのです。しかも、その意向は景勝の代だけでは終わらず、後の藩主たちにも受け継がれていきました。

3代当主・上杉綱勝(つなかつ)は、藩士には「一汁一菜」の倹約生活を命じながら、自身は狩猟や能楽に耽るという性格でした。そのため、ついに借金生活となってしまいます。

それまで苦しいながらもどうにか借金だけはしなかった米沢藩ですが、さらに悪いことに綱勝は跡継ぎもいないまま26歳の若さで急死。借金だけが残りました。このまままではお家断絶の危機もありましたが、綱勝の正室・媛姫の父である保科正之(ほしなまさゆき)が幕府に掛け合い、綱勝の妹の子を上杉氏の養子にするように交渉しました。

この交渉は、お家を存続させる代わりに藩領の半分を幕府に返上するというもので、石高は15万両にまで減ってしまったのです。それでも、改革には手が付けられずに時代は流れ、江戸時代中期。

日向国(宮崎県)高鍋藩6代藩主・秋月種美(あきづきたねみつ)の次男として生まれた 治憲(はるのり)は、10歳で遠縁にあたる米沢藩8代藩主・上杉重定(しげさだ)の養子となります。当時は、藩が違っても姻戚関係は成立し、様々な藩でこうした縁組が行われていました。

実際、治憲の祖母が重定と従兄弟の関係にありました。こうして米沢に来たのが宝暦10年(1760年)のことです。そして、明和4年(1767年)には家督を継ぎ、米沢藩代9代藩主・上杉治憲となったのです。

しかし、それは苦難の道への第一歩でもありました。

上杉家は当時、借金が約20万両(現在の価値で約150~200億円)もあり、石高が30万石しかなく、おまけに米沢には名産や特産となるものがない状態でした。これはすべて代々の藩主が家臣団を召し放さずに雇っていたためで、治憲の代にはどうにもならないほどの財政状況に陥っていたのです。しかも、6,000人ですから、家臣の割合は他の藩と比べても高いものでした。

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さて、ここでちょっと治憲の呼び名に話を変えましょう。

治憲とは上杉氏の養子となったときに改名した名前ですが、一般的には「上杉鷹山」として有名です。鷹山とは隠居してから改めた名前ですが、こちらのほうが有名なので、以後は鷹山と呼ぶことにします。ちなみに、米沢では現在でも人々に尊敬されていて「上杉鷹山公」と「公」を付けて呼ばないと失礼にあたるとか。

なぜ、そこまで敬われ、親しまれているのかというと、ズバリ鷹山が米沢藩の困窮を救ったからなのです。

江戸時代、全国の諸藩は参勤交代によって財力を減らされたり、天下普請といって幕府が藩に費用を負担させて公共工事などを行わせていました。これにより、諸藩が力を持ちすぎることを防いでいたわけです。当然、米沢藩にも負担を強いられます。さらに農村は疲弊していて、洪水の被害などが重なったことで、どこにも余分なお金がない状況でした。

藩主に就任した鷹山は、まず家老たちと激しく対立します。わずか17歳にして12か条からなる大倹約令を発布、鷹山が率先して改革に乗り出しました。上杉という名家の誇りを捨てきれず、いつまでも豪奢な生活を変えることができない家老たちと、現実主義の鷹山。お金がない以上は倹約することから始めるべしということで、参勤交代などで必要になる江戸での生活費を1,500両から、209両にまで抑え、屋敷の奥女中も50人から9人にまで減らします。

具体的な改革案が示されたことで、家臣たちも鷹山の本気を察したことでしょう。さらに初めて登城したときのこと。通例よりも遥か手前で駕籠から馬に乗り換え、駕籠かきの働きを労ってから馬で入城したといいます。祝いの膳は赤飯と酒のみという質素さです。そして、藩主となってからは自ら手足を泥に汚しながら田を耕します。こうして、藩主が率先して働く姿を家臣や農民に見せてやる気を引き出しました。

農民へは非常食の普及や倹約を奨励しました。米沢藩は、最初に国替えしてきたときの領主である上杉景勝時代の家老・直江兼続(なおえかねつぐ)も、このような事態を見越して、ある政策を行っています。それが、武家屋敷の生垣としてウゴギを植えさせることでした。ウコギは、たらの芽やウドなども含むウコギ科の草木で、昔から春の山菜として食べられてきました。そのため、非常食にもなるようにウコギを植えることを奨励していたのです。ちなみに、ウコギには鋭いトゲがあるため、敵が攻め入ったときでも侵入を防ぐ手段にもなります。

もちろん、鷹山は家臣や農民たちだけに倹約をさせたわけではありません。自らも倹約に努め、粥を食べる生活をしています。着るものは木綿、食事の基本は一汁一菜、朝食には粥を2膳と漬物、昼と夜は干した魚などとともにうどんやそばを食べていたといいます。酒も飲まず、さらに木綿の着物は羽織袴だけでなく、下着まで木綿のものを使い、絹のような高価な生地は使わないという徹底ぶりです。

明和8年(1771年)、鷹山は「御領地高並御続道一円御元払帳」という帳簿を作成しました。米沢藩の一年間の収入・支出・借金を記載したもので、日本で始めての簿記と考えられています。具体的な数字で藩の財政を浮き彫りにさせ、周囲に現状を認識させたのです。また、鷹山は領民の声に広く耳を傾けました。「上書箱」という箱を設置して、身分を問わずに意見書を募ります。

鷹山の変わったところは、しきたりにこだわらないところでした。「馬に乗る位置」「祝いの席の料理」、そして「普通は声を掛け得ない下級家臣や農民にも声をかける」という変わりっぷりです。ある時、夕立が降りそうで急いで干した稲を取り入れていた老婆が、二人の武士に手助けしてもらいました。お礼に餅を持っていきたいというと「城まで来るように」といわれたそうです。後日、城まで餅を持ってきた老婆は、鷹山の前まで通され驚きました。取入れを手伝った武士の一人こそ、鷹山だったのです。

このように鷹山は、常に農民とも近い立場で改革を進めていったのです。

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他にも学問の必要性を強く感じた鷹山は、休止していた藩の学校である「興譲館(こうじょうかん)」を再開、以降は幕末まで米沢藩の教育機関として運営されました。興譲館では、身分に関係なく、藩士も農民も学問を学べました。

また、特産品の開発も奨励します。笹野一刀彫(ささのいっとうぼり)という木彫りや成島焼(なるしまやき)といった焼き物、米沢織といった織物など、様々な工芸品を生み出しました。武士の婦女子には内職として機織をさせ、その後は桑の栽培と養蚕を推奨し、絹織物を生み出します。こうして織られた米沢織は全国的にも有名になり、現在でも米沢の主要産業になっているほどです。工芸品の開発は、農民が農作業の出来ない冬に収入を得るための手段として推奨されたのです。

もちろん、こうした改革に反対する藩の重役たちもいましたが、これらを退け、鷹山は改革を続けます。その改革もある程度機能し始めたところで、鷹山は34歳という若さで隠居します。その理由はハッキリとはしていませんが、養父である上杉重定の実子・治広(はるひろ)に早く家督を継がせたかったためといわれています。それというのも、治広は鷹山が藩主となったあとに生まれた重定の実子で、彼に家督を継がせることで重定を安心させたかったためといわれているのです。

しかし、家督相続の際にも鷹山は倹約の心を忘れてはいませんでした。

治広に家督を譲るときには、藩主としての三か条を申し渡しています。

○国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、藩主のものではない。
○領民は国(藩)に属しているのであり、藩主のものではない。
○国(藩)、領民のために存在し行動するのが領主である。領主のために存在し行動するのが国や領民ではない。

この三か条は後の相続者に代々伝えられることになりました。また、「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という言葉も、この継承のときに誕生しています。

やろうと思えば何事も出来ます。出来ないのはやろうと思わないからです。やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです、という意味です。

こうした心得を次世代に託した鷹山の努力は、2代後の第11代藩主・上杉斉定の時代に実を結び、借金を完済しました。そして、文政5年3月11日(1822年4月2日)、鷹山は72歳で老衰のためにこの世を去りました。

現在でも、市民から歴代藩主のなかで唯一「公」の敬称を付けて呼ばれる人物となったのです。

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