上杉謙信 ゆかりの地 史跡めぐり

上杉謙信 ゆかりの地 史跡めぐり(春日山城、春日山神社、林泉寺、栃尾城、川中島古戦場・八幡原史跡公園、海津城(松代城)、妻女山、善光寺)

戦国時代最強の武将と言うと皆さんは誰の名前を挙げるでしょうか。

「信長の野望」などのゲームやドラマ、映画など絶対的な人気と知名度から織田信長の名前を挙げる人が多いかもしれません。

次いで天下を統一したことから豊臣秀吉や徳川家康、そして大河ドラマの影響から真田幸村を挙げる人も多そうです。

歴史に詳しい人は関ヶ原での活躍から島津義弘や、最強の騎馬軍団を持つと言われた武田信玄なども挙げたくなるでしょう。

最強と呼ばれることの多い武田信玄や織田信長ですが、そんな彼らですら一目置いて畏れていた武将がいます。

自らを戦いの神様である毘沙門天の生まれ変わりだと称し軍神と呼ばれた越後の龍、「上杉謙信」その人です。

信長や秀吉、家康ほどメジャーではないので名前は知っているけど何をした人かは分からないなんて人も多いかと思います。

実はこの上杉謙信、知れば知るほど面白く、不思議な魅力を放つ戦国武将としては異色の存在だったりするのです。

大名になりたい、トップに立ちたい、というような野望や野心がなく、ひたすら義のために戦う人だったと言われています。

人が困っていたり助けを請われると断れずに出陣し、人のために戦うことが多く自己犠牲の精神を持つ人だったようです。

そのくせ戦はめっぽう強く、ほぼ負け知らず、頭脳も明晰で判断力もズバ抜けているカリスマだったので「軍神」とも呼ばれ畏れられていました。

そんな素晴らしいリーダーなのに家臣が自分の言うことを聞かず仲間同士で争いなんかしていると嫌気がさしたのかサッサと大名を自ら辞めてしまい、皆であわてて謝って思いとどまってもらったなんていうエピソードも残されています。

さらには実は女性だったのでは?などという珍説が飛び出すなど、謎の多いミステリアスな面を持つ魅力たっぷりの戦国武将なのです。

今回はそんな上杉謙信の生涯や生き様を紹介しつつ数多く残るゆかりの地、史跡を戦国時代に思いを馳せながらご案内していこうと思います。

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春日山城

まずは謙信の居城で産まれた場所でもある「春日山城」へ向かいましょう。国の指定史跡であり日本100名城にも数えられています。

上杉謙信は越後守護代であった長尾為景(ながおためかげ)の末子として春日山城で誕生。幼名を虎千代(とらちよ)と名乗りました。

元服してからは武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねましたが、そのほとんどが義を重んじ出兵したものだったと言われています。
謙信の旗印「毘」の文字は自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた「毘沙門天」からとったもの。その戦ぶりから越後の龍とも呼ばれました。

謙信が本拠地とした春日山城は変化に富んだ地形を上手に利用した難攻不落の城として威風堂々たる堅城だったそうです。

しかし、謙信の誕生から最期まで看取った春日山城は、後を継いだ上杉景勝が会津に移封されると静かにその役目を終えます。

現在は城郭はなく春日山に空堀や土塁、石垣や大井戸など山城の特徴と言える遺構が残されているだけです。

春日山城跡の中腹には遠くを睨むかのような凛々しい上杉謙信公の銅像が立っていますので必見です。

その他にも本丸跡や上杉景勝屋敷跡、直江兼続屋敷跡、毘沙門堂跡など石碑があちこちに建っているので散策するのが楽しい史跡だったりします。

春日山神社

続いて「春日山神社」に足を運びましょう。

春日山城跡と同じ場所にあり、上杉謙信を主祭神としている神社で山形県米沢市の上杉神社より分霊された謙信公が祀られています。

明治になってから創建され、戦では負け知らずであった謙信公にあやかり勝運を授けてくれる勝利祈願の神社としても有名だそうです。

直線的でがっしりとした重みのある神明造の社殿は厳かで見応えがあり、境内に隣接する 春日山神社記念館には謙信の遺品・資料などが展示されており必見です。

毘沙門天からとった「毘」と書かれた有名な軍旗を間近に見たときはその迫力に圧倒されました。

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林泉寺

続いて春日山のすぐ近くにある上杉謙信の墓所、「林泉寺」に向かいましょう。

謙信を語るにはまず墓所である林泉寺に参拝し、ここに眠る謙信公に手を合わせ感謝の気持ちを伝えてからにしましょう。
謙信が虎千代と名乗った幼少時代に林泉寺に預けられ和尚の元で厳しい教育を受けたと伝わります。

林泉寺での修業は謙信の人格形成にも大きく影響したと言われ、義を重んじる精神や明晰な頭脳や判断力はここで養われたのかもしれません。

元服して長尾景虎と名乗り、のちに上杉氏を継承して上杉政虎を名乗り、最終的に上杉輝虎と名乗ったとき林泉寺は上杉氏の菩提寺となりました。

輝虎は七世住職益翁宗謙(やくおうそうけん)のもとで修行し、剃髪した時に師から一字を譲り受け不識庵謙信(ふしきあんけんしん(法号(法名)))と号するようになり「上杉謙信」が誕生したとされています。

林泉寺の山門には写しではありますが謙信公直筆と言われる「春日山」と「第一義」の文字が力強く書かれた額が掲げてあるので思わず見入ってしまいました。

境内にある宝物館に行くとその額の本物を間近で見る事ができます。他にも謙信が存命中に描かれたものとして唯一現存する肖像画などゆかりの品々が数多く展示されていますので必見です。墓所には謙信の墓があり、川中島合戦の戦死者の供養塔もありました。

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栃尾城

次は謙信が初陣を飾り青春時代を過ごした「栃尾城(とちおじょう)」を紹介します。

春日山城で誕生し幼少期を林泉寺で過ごした上杉謙信は14歳にして城主として栃尾城へ入ります。

その後、19歳で守護代となり春日山城の城主となり21歳で越後守護(国主)となるのですが、最も多感な時期を栃尾城で過ごすことになります。

栃尾城は城郭全体が鶴が翼を広げた様な三日月形をしており鶴翼の陣と同じ形状になっていることから「鶴翼城(かくよくじょう)」とも呼ばれる要害城(緊急時に立て篭もるための城)です。

景虎を名乗っていた14歳の謙信が城主として栃尾城に入ると前城主の本庄実乃(ほんじょうさねより)が補佐役として若き謙信を支え続けました。

本庄実乃は、幼少期の謙信の器量を見抜いて早くから栃尾城に迎え側近となり軍学の師匠としても多くの影響を与え、謙信の成長に大きく貢献した重要な武将です。

この栃尾城で軍学や政治などを学び、後に越後の龍と呼ばれ全国に名を轟かせることになる上杉謙信になっていったのでしょう。

今は城郭はなく山城として石垣など城跡が残されているのみですが、長岡市栃尾の大野地区にある熊野神社付近に城主館跡があり周辺は家臣団の居住区でした。

周辺には謙信によって創建された常安寺があり、近くにある秋葉公園内の秋葉神社境内には上杉謙信の座像を見る事ができます。

秋葉神社から高台へ移動すると栃尾美術館があり、そこには謙信の凛々しい騎馬像もありますので必見です。なお、栃尾美術館付近からの栃尾城の眺めは絶品です。

美術館の奥には大正時代になってから建てられたという「謙信公廟」があり、隣には謙信の幼少期からの教育係であり謙信が師と仰いだ門祭和尚の墓もあります。

青春時代に初陣を飾り、そこからはまさに戦いにつぐ戦いの連続であった上杉謙信の生涯。
野望や野心がなく己の立身出世ではなく義のために戦う人だったエピソードとして出家騒動があります。

1553年に初めて京に上洛し天皇や将軍・足利義輝に拝謁した時に堺と高野山に赴いた時に僧になりたいという願望が芽生えたのかもしれません。

その翌年になると北条高広が謀反を起こすなど、家臣同士の領土争いや紛争が相次いで起こります。

心身が疲れ果ててしまったのか1556年3月、27歳のときに出家すると隠居を宣言して6月にたったひとりで家を飛び出して高野山に向かってしまいました。

長尾政景ら家臣たちがあわてて後を追い説得すると、高野山行きを断念し越後に戻って謀反を起こしていた大熊朝秀を討伐してようやく越後を統一することに成功します。

当時としては珍しく野心のない義の男、上杉謙信のライバルと言えば歴史好きな人はすぐに武田信玄の名前を挙げることでしょう。

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川中島古戦場・八幡原史跡公園

青春時代に初陣を飾り、そこからはまさに戦いにつぐ戦いの連続であった上杉謙信の生涯。
そんな謙信の好敵手、ライバルと言えば歴史好きな人はすぐに武田信玄の名前を挙げることでしょう。

戦国最強と謳われる事の多いこの両雄が、雌雄を決するべく幾度も対峙した場所が川中島であり「川中島の合戦」は特に有名な戦と言えるでしょう。

上杉謙信を語るには欠かせない川中島を紹介しましょう。現在は八幡原史跡公園となっており「川中島古戦場」として散策できるようになっています。

「川中島の合戦」は、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が有する土地の真ん中である信濃北部の支配権をめぐっての戦いなのですが、両雄の戦う理由はまさに正反対だったりします。

野心に燃え自身の勢力拡大のために領土を広げる武田信玄と、そんな信玄に攻め込まれ困っている人から助けを求められて立ち上がる正義の味方、上杉謙信。

現在の長野県長野市にある川中島付近で5度も合戦が行なわれました。中でも全軍の8割が死傷する大激戦となった4度目の合戦が特に有名です。

その舞台が「川中島古戦場」で、今は八幡原史跡公園となっています。広大な緑地が広がり池などもあってのどかな憩いの場という雰囲気です。

ここで多くの死傷者を出した大合戦があったとは到底思えない静けさなのですが土塁や堀の跡が今も生々しく残されているので、目を閉じて当時に思いを馳せれば足軽たちの怒号や刀や弓の音、馬のいななきや勝どきの声などが聞こえてくるかもしれません。

そしてなんと言ってもこの公園の目玉であり息を呑むような感覚に襲われるのが上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをしたときの銅像でしょう。

テレビや映画などメディアでこの2人の戦いが取り上げられる度に、必ずと言って良いほど描かれるのが両雄の一騎打ちではないでしょうか。

信玄の本陣にただ一騎で攻め込み馬上から刀で襲い掛かる謙信と、それを座ったまま軍配で防ぐ信玄。この名シーンがそのまま銅像になっているのです。

「武田・上杉両雄 一騎打ちの地 八幡原」という石碑が立ち、銅像の近くには「三太刀七太刀之跡之碑」との石碑もありました。

これは、謙信は3度斬りつけたが、それを防いだ信玄の軍配には7つの傷ができていたことから三太刀七太刀之跡と呼ばれるようになったそうです。

その他にも園内には信玄が陣を構え御加護を仰いだ八幡社や、首塚や慰霊碑、執念の石などがあり見どころ満載と言って良いでしょう。

川中島古戦場に行かれたら同じ園内にある「長野市立博物館」にもお立ち寄りください。
合戦のあらすじを紹介したビデオや当時の文書や後世の甲陽軍鑑なども展示されているので理解が深まります。

両雄が信仰していた善光寺や、江戸幕府のもと長野で10万石を治めた真田氏の松代藩の記述などもあり歴史好きとしてはなかなかに楽しめる内容です。

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海津城(松代城)、妻女山(さいじょさん)

次に紹介したいのが川中島古戦場から少しだけ南に位置する「海津城」と「妻女山」です。

川中島とは切っても切れない城と山です。「海津城」ですが現在は真田時代より「松代城」と名を変えています。

大激戦となった4度目の川中島合戦がドラマなどで描かれる時によく出てくるのが「啄木鳥(キツツキ)戦法」という作戦なのですが、そのキツツキ戦法がここ海津城と妻女山を舞台に繰り広げられたというわけです。死闘となった激戦を解説しながら紹介してみたいと思います。

海津城は武田信玄が川中島方面への守りとして山本勘助や馬場信春らに築城させたと言われる、さほど大きくはない要害のような城です。

信玄は4度目の川中島合戦に備えて海津城を築き高坂弾正を城代として2千の兵を駐屯させました。

上杉謙信は1万3千の兵を率いて越後から北国街道を南下し、まず善光寺に布陣します。そして合戦が始まると上杉勢はいっせいに犀川(さいがわ)を渡り八幡原を南下してきます。

海津城の守りを固めていた高坂弾正はすぐに狼煙を上げて甲府の躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)にいる武田信玄に急を告げます。

10町ごとに狼煙台が立ち海津城から甲府まで直線距離にして100キロの距離をわずか2時間半で急を知らせたと言うから驚きです。

高坂弾正は信玄の本陣が川中島に到着するまで海津城を死守する覚悟を固めますが、上杉勢は海津城には目もくれず城から西へ2キロの妻女山に布陣しました。

妻女山に布陣し武田軍を見下ろす上杉軍と、海津城内の展望台から妻女山を睨みつける武田軍との対峙が始まりました。

少数が守る小さな城をなぜ早く攻め落とさないのかと側近が謙信に進言すると「わずかな人数を攻めるのは卑怯、臆病の戦よ」と言ったと伝えられています。

海津城の危機を知り1万6千の兵を率いて駆けつけた武田信玄は上杉軍と千曲川を挟んだ対岸に布陣し、双方にらみ合いが続きます。

いつまでも上杉軍が仕掛けてこないので武田軍は千曲川を渡り海津城に入城しました。武田軍の行軍中も上杉軍は静観していたそうです。

信玄は兵力で勝っていることを利用して、川中島の決戦場である八幡原へ直行する本隊と、妻女山から上杉軍を決戦場へおびき出すための別動隊との2隊に分けました。

世にいう「啄木鳥戦法」とはこの別働隊の行動であり、啄木鳥が木をつついて中の虫を驚かせ穴から出てきたところを食べるという習性から名付けられた戦法とのことです。

上杉軍を刺激するために別働隊を出し後ろからつつく事で浮き足立った上杉軍を武田本陣と挟み撃ちにして一気に蹴散らしてしまおうという作戦です。

ところが海津城から啄木鳥の役目を果たそうと別働隊が出発し、妻女山に到着してみると上杉の陣はもぬけの殻。

海津城からあがった狼煙で武田軍の動きを察知した上杉軍はすでに闇夜と霧にまぎれ物音を立てないようにこっそりと八幡原へ移動した後だったのです。

慌てた武田の別働隊は即座に上杉軍の後を追いますが時すでに遅く八幡原に立ちこめていた霧が晴れた瞬間、信玄の目の前に出現したのは布陣をすでに終えて臨戦態勢の上杉軍だったのです。

一気に攻めかかる上杉軍と別働隊が到着するまでなんとか持ちこたえなくてはと必死の武田軍の大激戦がこうして始まりました 。

必死で守る武田軍に次から次へと襲いかかる上杉軍。かなりの乱戦に信玄の弟である武田信繁など名のある多くの侍大将が戦死しています。

ようやく武田の別動隊が到着すると数で勝る武田軍が何とか挽回し形勢逆転。

これ以上の戦いは無益と判断した謙信は撤退する前に信玄のいる本陣へ単騎で乗り込み一騎打ちをしたという逸話へとつながります。

そんな歴史を知った上で当時に想いを馳せながら川中島を歩き両雄の銅像を見て、海津城や妻女山を見上げると全く違った風景に出会うことが出来ます。

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善光寺

次はその川中島から少し北に位置する「善光寺」を紹介しましょう。

長野に行くのならぜひ参拝して頂きたい日本有数の名所であり、7年に1度の御開帳時には数多くの参拝客で大いに賑わいます。

上杉謙信のゆかりの地でもあり、先にお伝えした川中島合戦でも幾度も謙信は善光寺に陣を張っています。

川中島合戦は実は善光寺の奪い合いだった、なんていう説も囁かれるほどです。

そんな観光名所である善光寺と両雄の関わりを川中島第2次合戦から紹介したいと思います。

合戦の発端は信濃国善光寺の国衆が武田方に寝返り、長野盆地の南半分が武田の勢力となり善光寺より北の上杉方の諸豪族らへの圧力が高まった事とされています。

信玄と謙信は善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣してきます。終始にらみ合いとなった第2次合戦は決着せず今川義元の仲介により和睦となります。

信玄と和睦した謙信は善光寺の大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰って直江津に如来堂を建立し安置してしまいます。

負けじと信玄はその後、善光寺本尊にまだ残っていた阿弥陀如来像や寺宝を甲府に持ち帰って仮堂に収め甲斐にも善光寺を建立し安置してしまいます。

秘仏とされる善光寺如来が甲斐に到着すると甲斐の領民は非常に喜んだと記録に残っているそうです。

今は善光寺に戻されていますが謙信も信玄もそれほど夢中になった善光寺というお寺には何か不思議なパワーが秘められているのかもしれません。

善光寺にお参りするときはそんな謙信と信玄の気持ちを思い浮かべながら手を合わせてみるのも一興かもしれません。

もし車で周られる方はぜひ上杉謙信が生まれた居城、春日山城から善光寺に立ち寄って川中島と妻女山へ向かってみて下さい。

上杉軍の進軍経路が体感出来るだけでなく距離感や地形なども目に見えて分かります。謙信の気持ちになっての史跡めぐりは貴重な経験となることでしょう。

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上杉謙信 武田信玄とのエピソード

最後に上杉謙信という人を最もよく表現していると思われるエピソードを紹介させて頂きます。

「敵に塩を送る」という言葉は日本人であれば誰もが知っていると思います。敵が苦しんでいる時にその苦境を救うといった意味です。

しかしこの言葉の元になった逸話が上杉謙信と武田信玄だったと知る人は少ないかもしれません。

武田信玄は長年に及ぶ今川氏との同盟を破棄し東海方面への進出を企てます。領内に攻め込まれた今川氏真(いまがわうじざね)は北条氏康(ほうじょううじやす)の協力を仰ぎ、武田へ塩を売るのを止めてしまいます。

武田領は甲斐・信濃にあり海に面していないため塩を取ることが出来ず領民は塩のない食生活に苦しんだと言います。

この領民の苦しみを見過ごすことが出来なかったのが、武田信玄の敵である上杉謙信でした。

謙信と信玄はこれまで幾度も敵対してきましたが「義」を重んじる謙信は、そんな武田家の領民の苦しみでさえも見過ごすことが出来ませんでした。

「われ信玄と戦うも、それは弓矢であり塩にあらず」と言い放ち越後から信濃へ塩を送ることを決意したと言います。

塩を積んだ牛車を信濃の信玄のもとへ送った時にその牛をつないだと言われる「牛つなぎ石」が長野県の松本駅の近くにあります。

そんな逸話もあってか武田信玄が死ぬ間際、自分の息子に「上杉謙信は信用できる男だから何かあったら謙信を頼るように」と遺言を残したと言われています。

そして謙信も武田信玄の訃報を聞くと「信玄ほどの英雄は世に二人といない。私は生涯のライバルを失ってしまった。無念でならない」と、涙を流してその死を嘆いたといいます。

何年にも渡り戦ってきた宿敵のはずが、いつしか好敵手として友情のようなものが芽生えていたのかもしれません。

このエピソー ドを知った上で両雄が雌雄を決した川中島古戦場に行ってみると、信玄と戦う謙信の表情は今までとは違って見えるかもしれません。

歴史めぐりにはそんな魅力があるからやめられません。

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