ボーダーツーリズムの最前線 対馬!その歴史と観光の魅力をご紹介!

対馬の歴史と魅力をご紹介致!

対馬は、長崎本土から見て壱岐を隔てて北に浮かぶ島です。大きさは708.7 km²で、シンガポールと同じくらいの大きさの島です。そして、日本で最も韓国に近い島で、晴れた日には北部の鰐浦からは釜山の町並みが見えることもあります。

「ボーダーツーリズム」は、国境を実感する旅のことです。最北端の鰐浦から国境を眺めることや、釜山行きの船が2カ所(北部の比田勝、南部の厳原)から出ていますので、対馬観光と釜山と併せて旅行を楽しむのもいいでしょう。

実際、韓国人の旅行者は非常に多いです。ですが、対馬を訪れる日本人観光客はそれに比べて少ないです。そんな対馬の魅力を日本人にももっと知ってもらうためのポイントを対馬の歴史とともにご紹介致します。

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対馬へのアクセス

対馬へは飛行機で行く方法と、船(フェリーとジェットフォイル)で行く方法があります。飛行機は福岡空港からANA(全日空)、長崎空港からORC(オリエンタルエアブリッジ)が出ています。間際になると、たまに満席になることがあるので注意してください。

船は九州郵船という会社が博多からフェリーとジェットフォイルを出しています。南部の玄関口、厳原まではジェットフォイルで2時間、フェリーで4時間です。北部の比田勝へはフェリーで5時間50分です。

そして、おすすめなのが、韓国の釜山から対馬へ渡る方法。釜山までは、成田や関空からLCCが出ていますし、釜山港からは厳原と比田勝まで、未来高速、JR九州高速船、大亜高速海運、韓日国際海運の4社が出ており、釜山から北部の比田勝まではわずか1時間10分で到着です。

対馬の観光名所

対馬には太古の昔から人が住んでいました。そのことは、かの「魏志倭人伝」にも記されています。その中には、「始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。(始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。[出典:Wikipedia])と、魏志倭人伝において邪馬台国を押さえて、最初に出てくる日本の地名です。

このように昔から人が住んでいましたから、歴史観光スポットも満載です。まずはこれらの観光地を南部から順に見ていきましょう。なお、島内には対馬交通のバスはありますが、走っていない地域も多く、また本数は少なめなのでレンタカーをおすすめします。

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・多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)

「延喜式(えんぎしき)」神名帳に下県郡(しもあがたぐん)の名神とし、古来「天道信仰」の本拠とされてきました。「金鼓・梵鐘」が国の重要文化財となっており、今でも対馬で最も多い苗字、阿比留氏の名前を見ることができます。

多久頭魂神社のある豆酘(つつ)地区には赤米神事といって、赤飯の原型ともなった赤米をまつる神事が今でも行われています。特に、赤米の世話役を受け継ぐ「頭受け神事」は毎年旧暦1月10日の深夜に多久頭魂神社で、行われ、特に神聖な儀式とされています。

・美女塚

悲しい、悲しい美女の物語。昔、厳原の豆酘(つつ)地区に鶴王という絶世の親孝行な美女がいました。ある時、その美しさを買われて都に行くことになったのですが、親孝行な娘は、年老いた母親を置いていくわけにはいかず、「私のような悲しみが起こるなら、もう二度と私のような美しい娘が生まれませんように」といって自殺してしまいました。このような悲劇を起こさないように、また、娘の魂を鎮めるためにこの地にひっそりと建っています。

・龍良山原始林

長らく神聖な場所として人が立ち入らず、手付かずだったため、縄文の森が当時のまま残っています。

・万松院

かつて対馬を統治した宗家の墓所があるところです。石畳の奥には風情のある建物があって、対馬のパワースポットの1つにも数えられています。何度か火災による焼失を経験しましたが、安土桃山時代の山門と仁王像は対馬で最も古い建造物とされています。

・国分寺跡

聖武天皇の令により国分寺・国分尼寺が各地に建設されましたが、対馬では国分寺とは言わず、島分寺といいました。その後、宗氏により再建され、いくつかの移転を経ながら、現在の地へ移りました。国分寺の山門は、対馬随一の四脚門(よつあしもん)で、1992年には厳原町の有形文化財に指定されました。

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・厳原八幡宮(いづはらはちまんぐう)

厳原の集落の守り神です。この裏手の山は清水山といわれており、一説によれば、京都にある石清水八幡宮はここが原点との説もあるそうです。対馬国一宮との可能性もあり、和多都美神社(わたづみじんじゃ)を名乗っていた時期もあるそうですが、現在は主張していないとのことです。

・上見坂(かみざか)展望台

堡塁(ほうるい)跡、砲台跡、兵舎跡など日露戦争当時に築かれた遺跡があります。対馬は日露戦争の日本海海戦の舞台にもなったので、後述する日露友好記念碑など日露戦争に関するスポットも多いです。桜の名所にもなっているので、春の訪れを感じることが出来ます。

・椎根の石屋根

対馬西部に位置します。車でしか行けないような場所にありますが、対馬ならではの民俗学的に貴重な石の屋根が残っています。

・金田城跡

西暦660年、白村江の戦いで、朝鮮三国のひとつ百済が唐・新羅の連合軍により滅亡しました。百済を支援していた倭国も危機感を覚え、朝鮮からの防衛を担う防人のために建てられた城の跡で、対馬の歴史を物語っています。

・梅林寺

美津島町小船越にある寺。言い伝えによれば、おそらく日本で最古の寺であると伝えられています。建立は西暦538年。百済の聖明王が欽明天皇に贈与した仏像を仮置きするために作ったのが始まりだと言われています。

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・万関橋

対馬空港の北、万関橋で対馬は南北に別れます。人工的に造られた運河で、船が通ることもあります。明治後期に作られた人口運河で、ロシアの南下政策に立ち向かうべく、戦争を有利に進めるために掘られました。

・和多都美神社

対馬で1番有名な観光スポット。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残っています。創立年代が分からないほど古くから対馬に存在する神社で、延喜式にも名前が記されています。全国的に見ても珍しい三柱鳥居が残っています。海に囲まれた鳥居はフォトジェニックなスポットです。

・烏帽子岳展望台

夕日がきれいなことで有名な展望台です。

・浅茅湾

日本有数のリアス式海岸です。静かな波の音が聞こえてきます。1861年、ロシアの軍艦ポサドニック号の乗組員はこの芋崎を半年間占拠し、当時の藩主に土地の貸与を求めました。当時の藩主、宗義和(そうよしより)は対応に苦慮しましたが、イギリスの助けもあり、退去させることができました。

ほかにもロシアとのかかわりとしては、日露戦争の日本海海戦時があります。バルチック艦隊のロシア人負傷兵を手厚く保護したそうです。この記念碑が日本海海戦記念碑(殿崎公園)です。

・千尋藻の漣痕

さざなみの化石とも呼ばれ、長崎県の文化財にも指定されています。

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・海神神社

古事記に登場する海の女神「豊玉姫」を主祭神とする、峰町木坂に鎮座する対馬一の宮です。対馬でも特に神聖な場所とされています。また、両墓制といって、拝む墓と、実際に遺体が安置されている墓が違っていたのも、このあたりの集落の特徴です。神仏習合の神社としても知られ、一時、韓国人窃盗団によって盗難に遭っていた銅造如来立像が韓国より返還され、国指定重要文化財になっています。

・田バス停

おそらく日本で最も短い名前のバス停留所です。

・異国の見える丘展望所

韓国が見えると同時に、携帯電話によっては韓国の電波が入ってきてしまうこともあるそうです。

・対馬野生生物保護センター

絶滅危惧種のツシマヤマネコを飼育している施設です。運が良ければ、ツシマヤマネコが、えさを食べているシーンも撮影することが出来ます。

・鰐浦のヒトツバタゴ

対馬最北端に位置する鰐浦はモクセイ科の植物であるヒトツバタゴの日本最大の群生地です。海上自衛隊海栗島レーダー基地の向こうに天気が良いと釜山の街並みやネオンを望むことができます。

・豊砲台跡

世界一の巨砲として、第二次世界大戦の抑止力として機能したが、結局一度も使われることはなかった砲台です。軍艦「赤城」の主砲(諸説あり)を移設したものです。

いかがでしたか?

大陸の文化がいち早く入ってきた対馬には、神社が多くて、日本の原風景が残っています。実は自治体の中で山の数が一番多いのも対馬市でその数は177にも及びます。そのため、米が思うように収穫できず、対馬府中藩は栃木県の一部、佐賀県の一部などにも領地を持っていて、そこで賄っていました。ですから、対馬の命をつないでいたのは大陸との貿易でした。対馬を訪れて、対馬を楽しんで、日本の原風景に触れてみてください。

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