徳川家康ゆかりの地 京都歴史巡り、歴史観光

京都観光 徳川家康ゆかりの地

今回は徳川家康ゆかりの京都の史跡を紹介してみようと思います。

しかし徳川家康と言えば三河や駿府、江戸のイメージが強く、あまり京都のイメージがありません。
実際に調べてみてもやはり家康の足跡は多くは残されていないようです。

数少ない京都に残された徳川家康の史跡を紹介する前に、簡単に家康の生涯を駆け足で追ってみたいと思います。

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家康の生涯

家康は1542年に今の愛知県、三河国にて松平広忠の長男として生まれました。幼名は「竹千代」と言います。

6歳のころに駿河国の今川義元の人質になる予定でしたが、尾張国の織田家に捕らわれてしまい織田家で数年を過ごします。

織田家から解放された後は駿河の今川の人質となり、そのまま13歳になって元服し松平元信、後に松平元康と名乗りました。

1560年、家康が18歳の時に桶狭間の戦いが起き、仕えていた今川義元の死をきっかけに独立する事に成功し織田信長と同盟を結びます。

それからは織田家と共に戦に明け暮れ信長の天下統一の野望を助ける右腕のような存在になっていきます。

「徳川家康」と名乗るのは24歳の時で、徳川を名乗ってから今川家や武田家を破って領地拡大に成功します。

しかし1582年、家康が40歳の時に大きな転機が訪れます。本能寺の変が起こり同盟していた織田信長が亡くなってしまうのです。

本能寺の変が起きた時、家康は大阪の堺を見物していたと言われ、変の後は命からがら岡崎に逃げ帰ったと言われています。

信長の死後に織田家の家臣らと会議や戦により力を誇示して見せた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が次の天下人となっていきます。

1584年にそんな秀吉と家康が激突します。小牧・長久手の戦いは信長の跡を継いだ秀吉と、それを不服とする家康が1年以上に渡り戦った戦です。

しかしその後、人たらしと言われる秀吉の調略により家康は秀吉の家来になり、秀吉が天下統一を果たした後は恩賞として関東地方を貰います。

豊臣政権の元で五大老に就任し信頼と絶大な権力を得ますが、秀吉が亡くなると後継ぎである秀頼の後見を任されるも野望をむき出しにします。

1600年、家康58歳の時に関ヶ原の戦いが勃発。石田三成率いる西軍を破り事実上の天下人となり、1603年に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。

1615年、大阪の陣で豊臣秀吉の子である秀頼と戦い豊臣家を滅ぼします。

全国の大名に対する決まり事である「武家諸法度」と、天皇や公家に対する決まり事である「禁中並公家諸法度」を制定し、徳川幕府の支配を盤石なものにします。

1616年に病気で亡くなりますが、人間50年と言われる時代に75歳まで生きたのは驚異的な長寿と言えるでしょう。

家康の死後、磐石となった江戸幕府は天下泰平の世となり、1867年まで250年も続きました。

家康の生涯をザッと駆け足で紹介しましたが、京都に滞在した期間が本当にわずかであることが分かります。

信長に仕えるまでの大半は人質として駿府の今川家におり、信長に仕えてから本能寺の変までは各地で転戦を繰り返しております。

京都に滞在した時期としては秀吉の家来となり関東に移されるまでと、秀吉の死後から関ヶ原の戦い前後の数年でしょうか。

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二条城と徳川家康

徳川の城というと出世城とされる静岡県の浜松城や、愛知県の岡崎城、大阪城や江戸城などが思い浮かびますが、京都で徳川の城と言うと「二条城」と「伏見城」でしょうか。特に「二条城」は徳川のイメージが強いかもしれません。

しかし多くの人が「二条城」に対してイメージしているのはおそらく幕末に徳川慶喜が行なった大政奉還ではないでしょうか。

同じ徳川家ではありますが家康ではなく慶喜ですし、時代も背景も違います。

そんな慶喜や幕末のイメージが強い二条城ですが実は家康とも深いつながりがあるのです。

京都の代表的な観光地として名前が挙がる二条城をまずは詳しく紹介してみます。

現在の二条城は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸時代になってから建造を決めた城です。

そして家康が京都に滞在するときにはここが滞在先となっていました。

関ヶ原の戦いを制した家康は天下へ号令するため、朝廷から征夷大将軍の官位を授かるよう動きます。

任官されるには京都御所を訪れる必要があるのですが、織田信長が本能寺の変での謀叛により簡単に討たれてしまったので、京都に宿泊する時はかなり警戒していたようです。敵や味方から不意に襲撃されても防げる堅固な城が必要となります。

そこで家康は上洛時の宿所として京都に城を築くことを決め、京の町屋や住民を立ち退きさせる事にしました。

諸大名に天下普請として造営費用や労務の割当てを行なって築城をはじめ、関ヶ原の戦いから3年後に完成しました。ただし天守は完成までにさらに時間がかかり、さらに3年の歳月を必要とし関ヶ原の戦いから6年後に完成しました。

1603年に征夷大将軍に任命された家康は二条城に入城します。室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行なうため、御所へ向かう行列を二条城より出発させました。

その後、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行なうなど多岐に渡り使用していたようです。

1611年になると大阪の陣のきっかけとなったとされる有名な「二条城会見」が行なわれます。これは亡き豊臣秀吉の遺児であり豊臣家を継いだ大坂城主・豊臣秀頼と、天下人となった徳川家康が二条城の御殿において会見するという歴史的な出来事のことです。

まだ子供だと侮っていた豊臣秀頼が立派に成長し見事な若武者になっていたことに家康は驚き、徳川家の天下が秀頼によって覆されるかもしれないと危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したと言われています。

そして1614年に大坂冬の陣が勃発します。
家康は二条城に本営を置き大坂へ軍を進め、伏見城から出撃した将軍・徳川秀忠の軍勢と大阪城に攻め寄せます。

翌年に勃発した大阪夏の陣では豊臣勢が徳川家康を暗殺しようとした陰謀が明らかになり徳川方についていた古田織部の家臣が捕縛されました。

二条城に火をかけて混乱の中で家康を暗殺する計画だったようです。家臣の不始末で古田織部は切腹となってしまいました。

豊臣家が滅亡した後も二条城は京都における徳川家の宿舎として活用されていました。

二条城というと大政奉還が宣言された場所として有名ですが徳川家康が造営し京都の拠点として宿泊していた場所だったと知ると見方が変わってくることでしょう。

そんな視点で現在は国宝となっている二の丸御殿などを見ると家康の想いが伝わってくるかもしれません。

二条城へは 地下鉄東西線の「二条城前駅」で降りると目の前にあります。
JR京都駅からの場合は地下鉄烏丸線に乗り「烏丸御池駅」にて地下鉄東西線に乗り換えて「二条城前駅」です。

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伏見城と徳川家康

そして京都の徳川家康の城と言えばもうひとつ、伏見城があります。

豊臣秀吉が太閤となった後に隠居城として建造した壮大な近世城郭で、伏見の地震で倒壊するも移転し、そこで秀吉が病没しています。

家康よりも秀吉のイメージが強い城なのですが、秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍に攻撃された際に伏見城は焼失します。

それを再建したのが家康であり、二条城に政治の中心が移されるまでは伏見城で政務を行なったり時を過ごすことも多かったようです。

家康をはじめ、二代目将軍・秀忠や三代目将軍・家光の将軍就任が伏見城で行われるなど徳川にもゆかりの深い城なのです。伏見城は家光の時代まで使用されたましたが、1619年に廃城となりました。

余談ですが、先にも触れた関ヶ原の戦いの前哨戦で激戦地となった伏見城は京都市内の寺院のいくつかに移築されています。

激戦となった傷跡が生々しく、伏見城の床には多くの戦没者の血のりや切腹した痕跡が残されています。その血が流れた板を床板にすると足で踏むことになり供養にならないため床板を天井に移築したいわゆる「血天井」というものが京都にはいくつかありますので隠れたおすすめスポットとして紹介します。

徳川家康の忠臣、鳥居元忠が奮闘し最期を迎えた場所が伏見城であり、血天井はその遺構を供養のために移したものなのです。

三十三間堂からすぐ近くの「養源院」や、洛北にある「源光庵」、大原の「宝泉院」、西賀茂の「正伝寺」などが血天井で知られています。

パッと見るとただの黒いシミにしか見えませんが、よく見ると武将たちの手形や足跡や顔などがはっきりと確認できますし、切腹して激痛に転げ回っているような跡や、絶命して横たわり血だまりになったような跡などを見ることも出来ます。

少し恐ろしげな雰囲気もあり誰にでもおすすめ出来る場所ではありませんが、裏スポットとして興味のある方は見に行ってみてはいかがでしょう。

伏見城跡は今は「伏見桃山城運動公園」となっており、当時の伏見城とは関連のない模擬天守がシンボルとして同じ場所に建っています。

周囲は住宅地になっていますので遺構はほとんど残されていませんが、近年マンション建築現場の地下から伏見城の石垣が発見されたそうです。

この模擬天守は洛中洛外図(京都の市街と郊外の様子を描いたもの)に描かれた伏見城を参考にして建てられたので、威風堂々たる立派な姿をしていることから映画やドラマのロケ地として何度も利用されています。しかし耐震基準を満たしていないことから中に入ることは出来なくなったとのことです。
「伏見桃山城」へは、JR奈良線で「桃山駅」まで行き徒歩15分です。

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大徳寺と徳川家康

徳川家康の史跡は京都にはあまり多く残されていませんが、奇跡の一品が「大徳寺」にあります。

伏見城で豊臣秀吉と徳川家康が実際に対局したという碁盤が大徳寺の塔頭寺院、「龍源院」に当時のまま展示されているのです。

これには驚いて見入ってしまいました。オーラというかただならぬ雰囲気を醸し出すその碁盤からは本物であろうというリアルさが伝わってきました。

龍源院は大徳寺南派の寺院で、重要文化財に指定されている方丈、唐門、表門は創建当時のままで、大徳寺内でも最古の建物です。

もとは聚楽第にあったという「阿吽の石庭」も美しく、見ているだけで心が洗われます。
この大徳寺には他にも20を越える塔頭寺院があり、信長や秀吉ゆかりの塔頭などもあり戦国好きにはたまらない場所です。

大徳寺は北大路通り西、金閣寺より少し東に位置します。市バスを利用して「大徳寺前」で下車して下さい。

方広寺と徳川家康

そして家康はもちろん豊臣家とゆかりの深い「方広寺」(ほうこうじ)もぜひ訪れて欲しい場所です。

方広寺の鐘と言えば歴史的にとても有名で、鐘に彫られた銘文「君臣豊楽」「国家安康」を見ようと歴史好きが訪れる場所だったりします。
この銘文を書いた豊臣家に対し徳川家を冒涜(「家康の名を裂き、豊臣家を讃える」)するものだと激怒した徳川家康が大坂の陣に踏み切り、豊臣家を攻め滅ぼす口実に使われたと言われています。

大河ドラマなどでも必ずと言って良いほど取り上げられる有名なエピソードで、徳川と豊臣の確執を今も見ることが出来る隠れた人気スポットとなっているようです。

方広寺へはJR京都駅から市バスに乗って「博物館三十三間堂前」で降りると北に歩いて2分ほどで行くことが出来ます。

正法寺と徳川家康

徳川家康が残したエピソードとしては京都の八幡市にある「正法寺」(しょうほうじ)というお寺も紹介しておきましょう。

家康が八幡のあたりを行列で通っていた時に一人の女性を見染め、その女性を家康の側室とし、子供を産ませました。

その子が尾張徳川家の初代藩主となり、八幡という土地を大切に思った徳川家は「正法寺」を建て庇護した事で仏像や庭園やふすま絵なども見事なお寺となっています。

正法寺へは阪急京都線で東向日駅まで行き、阪急バスの南春日町行きに乗り約25分、南春日町より西へ徒歩8分で行くことが出来ます。

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知恩院・金戒光明寺・西本願寺・金地院・円光寺・御香宮と徳川家康

徳川家康ゆかりのスポットは京都には数少ないので最後は徳川家が寄進や再建などで関わった建造物などを紹介してみます。

京都市東山区にある「知恩院」は家康が命じて今のような立派で壮大な城郭構造に改められました。
城のない京都を防衛するための偽装城郭だとする説もあったようですが、幕末に会津藩と薩摩藩が知恩院に駐屯し見事に城郭としての役割を果たしました。

家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都に力を注ぎ直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かあった時には軍が配置できるように「知恩院」だけではなく、黒谷の「金戒光明寺」も城構えを持つ堅固な寺院として建てました。

黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられました。

小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎の天王山や淀川のあたりまで見渡せたそうです。
また、黒谷の古地図によると大坂城まで見ることが出来たという記述まであるそうです。

京都市下京区にある「西本願寺」も家康にゆかりがあり、浄土真宗の僧侶・教如に寺領を寄進したことから始まったそうです。

京都市左京区南禅寺にある「金地院」には家康の遺髪と念持仏が安置されているので必見です。

京都市左京区一乗寺にある「円光寺」には家康が朝鮮伝来の文章や木製活字を寄付したものが展示されています。

京都市伏見区御香宮門前町にある「御香宮」の本殿は徳川家康によって再建されました。

これらの史跡や建築も家康が携わっていると思うと訪れた時に見方が変わってくることでしょう。

あまり多くはない家康を感じることが出来る京都の散策の仕方めぐり方を紹介しました。

織田信長や豊臣秀吉に仕え、その後に天下人となった家康の偉業に思いを馳せながら京都の街を散策しみて下さい。

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