華厳宗 東大寺の歴史、四聖、大仏殿、南大門、二月堂、三月堂、戒壇院、鐘楼など見どころわかりやすく

華厳宗大本山 東大寺の歴史、見どころわかりやすく

東大寺は、南都六宗の一つである華厳宗(けごんしゅう)の大本山であるお寺です。

全国にある国分寺の中心である総国分寺としても位置付けられています。

※南都六宗…奈良時代、平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。 奈良仏教とも言う。 尚、当時から南都六宗と呼ばれていたわけではなく、平安時代以降平安京を中心に栄えた「平安二宗」(天台宗・真言宗)に対する呼び名。

※国分寺…仏教による国家鎮護のため、聖武天皇が日本の各国に建立を命じた寺院
出典:Wikipedia

東大寺の歴史のはじまりは奈良時代に遡ります。
第45代聖武天皇(701年~756年)が国をあげて建立したお寺であり、奈良の大仏が安置されていることでも有名です。

1998年12月には、古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されました。

この東大寺の歴史を紐解きながら、大仏殿、南大門、二月堂、三月堂、戒壇院、俊乗堂など見どころをわかりやすくご紹介していきます。

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東大寺の歴史

724年、第45代聖武天皇が即位しました。
しかし、天皇に即位してからというもの、地震や日食が続きました。

当時の日食は、『天子(天皇)の不徳の致すところ』として非常に重視されていたのです。

そのような中、光明皇后との間に生まれた皇太子が、728年に幼くして亡くなってしまいます。

さらに、翌年の729年には長屋王の変、737年には天然痘の大流行により藤原四兄弟が死んでしまうなど、数多くの災難が次々と発生してしまったのです。

聖武天皇は、亡くなった皇子の菩提供養のため、若草山山麓に小さな山房を設け、僧侶を住まわせました。

それが、東大寺の前々身にあたる羂索院(けんさくいん)になります。

後にこの羂索院が東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)となります。

その後、金鐘行者(こんしょうぎょうじゃ)と呼ばれ、山中で鍛錬を重ねていた僧の良弁(ろうべん)が、この羂索院を任されます。

良弁が管理することになったことから、金鐘寺と呼ばれるようになったのです。

良弁は、奥義を取得していた華厳宗(けごんしゅう)を国内で広めることを目的に、740年に中国より華厳宗の第3祖である法蔵(ほうぞう)の門下であった審祥(しんじょう)を華厳宗の講師として招きました。

この審祥の教えにより、聖武天皇も華厳宗の影響を受けていきました。

数々の災難に見舞われた聖武天皇は、741年に仏の力による国家安寧を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔(しょう/みことのり)を出しました。

翌742年には、この金鐘寺を金光明寺(こんこうみょうじ)に名を改めさせ、大和国の国分寺として指定したうえ、全国に作る国分寺の中心である総国分寺としたのでした。

※詔…天皇の命令

聖武天皇は740年頃より、都を平城京から京都に移し、難波、滋賀へと5年の間に遷都を繰り返しました。

その中で、743年には、仏教による鎮護国家の象徴となる大仏を造立(ぞうりゅう)する詔を出します。

ですが、都の造成がうまくいかなかったこともあり、大仏造立は中々スタートを切れない状態でした。

結局、745年に平城京に都を戻し、本格的に大仏造立を開始します。

その際に、安置する場所に選ばれたのが、総国分寺とした金光明寺でした。

場所は決まったものの、大仏の造立には、幅広い民衆の力が必要になります。

朝廷の役人の指示では、民衆心からを動かすことが難しく、民衆を従わせる実力者が必要でした。

そこで、白羽の矢がたったのが、当時朝廷から弾圧を受けていた僧である行基でした。

当時の仏教は、寺社内でのみ教えを説いていいことになっていましたが、行基は寺の中だけで教えを説くのが仏教ではないと考え、民衆の土木作業を手伝ったりしながら、民衆の輪の中に入り、末端の人々に仏教を広める活動をしていました。

民衆の生活を助ける活動を行っていたことから、民衆からの支持は高かったのですが、朝廷からはその活動方針の為、弾圧を受けていたのです。

しかし、年月とともに、行基の行っていた活動は、国に反抗するようなものではないことが朝廷にも認められ、僧の最高位である大僧正(だいそうじょう)を贈り迎えいれました。

行基はこれまで弾圧を受けていたことを気にもせず、朝廷の指示に従います。

行基が指揮を執ることになり、大仏造立は進んでいくことになったのです。

こうして、747年に大仏の造立を始めることができたのでした。

造立が始まるにあたり、金光明寺は東大寺と名を改めることになりました。

大仏が完成したのは、着工から5年後の752年でした。

その際には、インド生まれの僧である菩提僊那(ぼだいせんな)を大導師とし、大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)が執り行われました。

この大仏に魂を入れる儀式は国をあげての一大儀式となり、千人の僧侶、当時の政治や軍事に関わる役人すべてが参列する非常に大規模な儀式となりました。

大仏が完成したのち、大仏殿の建設工事が進められました。

大仏殿も大がかりな工事であったため、非常に長い年月がかかり、大仏殿が竣工したのは、大仏造立の着工から6年後の758年のことでした。

なお、大仏殿の造成と平行に、東大寺では伽藍の整備が進められていたため、大仏殿の完成で巨大な寺院が出来上がりました。

この東大寺建立における本願の聖武天皇、開基であり初代別当の良弁、勧進(かんじん)の行基、導師の菩提僊那の4人を、東大寺では現在でも四聖(ししょう)と呼び、特別な存在としています。

※本願とは、仏教においては仏に対し過去において立てた誓願であり、東大寺建立を切望し願った者をここでは表しています。
開基は、寺院を開いた人という意味になります。
東大寺の場合、寺を求め建てた聖武天皇に対し、東大寺を寺として開いたのは良弁になります。
別当とは、僧侶たちの役職の一つであり、特に神仏習合の思想より出来た神宮寺(じんぐうじ)や宮寺(ぐうじ)などで、神前でお経をあげたり、祈祷をしたりする僧たちの最高位の職名です。
※※神宮寺、宮寺…神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。
元々別の本職があり、兼ねて別の任に当たるという意味から、兼務の長官を意味していましたが、現在では寺の僧のトップで、企業でいう社長にあたります。
勧進は、主に神社や寺の建立のためにお布施を集めることをいい、後の時代での東大寺復興には、勧進により集めた資金が用いられています。
行基の場合は、大仏造立の責任者という意味になります。
導師は、仏教会において、僧侶の首座として儀式を取り仕切る僧をいいます。
この場合、大仏に仏を入れる儀式の総責任者という意味になります。

完成後、東大寺は奈良時代に栄えた宗派である南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)の大本山になります。

当時の宗は、学派みたいなものであり、現代の日本仏教の宗派という概念とは違っていました。

当時は、一つの寺院で複数の宗派を兼学することが普通だったのです。

そのような背景から、奈良時代には東大寺は「六宗兼学の寺」と呼ばれており、平安時代には空海により真言院が伽藍の中に開かれた上、最澄が伝えた天台宗も加わったことで、「八宗兼学の寺」と呼ばれるようになりました。

後に、寺院ごとで宗派に属するようになると、東大寺は華厳宗の寺院となり、総本山となったのです。

平安時代になると火事や落雷により、いくつかの建物が焼失しました。

さらに、暴風雨で南大門や鐘楼が倒壊するような事件も起こりました。

平安時代末期の1181年には、平家主導の朝廷に反発していた興福寺や東寺などの寺院が持つ兵力を削ぐために、平清盛は5男の平重衡(たいらのしげひら)に命令をだしました。

結果的に火の手が想定以上に回ったことにより、南都の寺院を焼き討ちする南都焼討(なんとやきうち)と呼ばれる兵火になってしまいました。

それに巻き込まれた東大寺も、壊滅的な打撃を受けます。

そのうえ、平家の影響力の強かった朝廷により、荘園(しょうえん(貴族や社寺の私有地))などを没収されてしまったのでした。

しかし、その後、清盛の姪の子にあたる第80代高倉天皇が死去し、続いて清盛自身も謎の高熱で命を落としました。

清盛に代わり政権を引継いだ清盛の3男である平宗盛(たいらのむねもり)は高倉天皇や清盛の死を仏罰と恐れ、清盛が科していた処罰を全て撤回しました。

源平合戦にて平家が滅亡(1185年)した後、力を取り戻した後白河上皇は、この荒廃した東大寺の再興に力を注ぎます。

1185年には新たな大仏の開眼法要が後白河上皇列席の下に行われました。

この際、後白河上皇は、自ら高い足場を登り、大仏の目に墨を入れたというエピソードが残されています。

ただ、当時の朝廷に、すべての伽藍を復興させるだけの資金力はなかったこともあり、資金や材料調達の采配は、大勧進職(だいかんじんしき)についた僧である重源(ちょうげん)に託されたのでした。

※大勧進職…寺院造営修理にあたる最高責任者

重源は、源頼朝ら鎌倉幕府からの協力を得て、東大寺の復興を果たします。

そして、1195年には新たな大仏殿の落慶法要が源頼朝列席の下、執り行われました。

戦国時代に入ると、1567年に三好氏と松永氏との戦いの兵火により、東大寺の伽藍は再度焼失してしまいます。

大仏焼失後、山田城城主であった山田道安が中心となり、大仏および大仏殿の再興に動きました。

その際、織田信長や徳川家康も勧進許可を出したのですが、資金的な問題か修復は進みませんでした。

江戸時代になっても、大仏は仮の頭部を乗せただけの状態で、雨ざらしだったといいます。

1684年に公慶(こうけい)と呼ばれる僧による大仏修理の勧進が始まると、東大寺復興が本格的にスタートします。

2年間で資金が準備でき、1686年には大仏の修理がはじまりました。

そして、5年後の1691年に大仏の修理は完成したのでした。

大仏完成後、大仏殿再建のため、勧進は続けられましたが、大仏再建よりもさらに莫大な費用がかかることがわかっていました。

公慶は、1693年に5代将軍徳川綱吉やその母である桂昌院(けいしょういん)に謁見しました。

将軍綱吉は幕府で復興させると判断し、東大寺の復興は江戸幕府主導による国家的な大事業となりました。

ですが、幕府が動いても資金や資材は足りませんでした。

そのことから、大仏殿は室町時代までのものよりも大幅に縮小され、現存する3代目の大仏殿として、1709年に完成したのでした。

その際に、他の焼失した伽藍の仏堂も再建が行われたのですが、資金の関係もあり、初期の伽藍にあった建造物の一部は復興されませんでした。

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東大寺の四聖

世界の宗教において四聖(しせい)とは、孔子・釈迦・ソクラテス・キリストを指します。

東大寺にも四聖(ししょう)と呼ばれる4人の偉人がいます。

ここでは、東大寺の四聖について説明します。

第45代聖武天皇

第45代天皇である聖武天皇は、第42代文武天皇を父に、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である藤原宮子(ふじわらのみやこ)を母として生まれました。
血筋は、大化の改新を起こした第38代天智天皇の兄弟で、第40代天武天皇の直系の玄孫(げんそん(孫の孫))にあたります。

聖武天皇が即位した当時は、701年に制定された大宝律令による政治が行われていた時代でした。

天皇を中心とした本格的な中央集権統治体制を取るもので、父である文武天皇時代に発令されています。

聖武天皇は即位後、この律令制度の中で、天皇の生母を皇大夫人(こうたいふじん)と呼ぶようになっていたのですが、父文武天皇の夫人(ぶにん)であった母を尊び、新たに大夫人(だいぶにん)という尊称を与えようとしました。

これは、皇族出身でない母を持つ聖武天皇に不満を持つものに対し、母親の権威を高め、その不満を払拭する狙いがありました。

聖武天皇自身も、当時の左大臣であった長屋王の父方の祖父が天武天皇、母方の祖父が天智天皇という自分との血筋の違いにコンプレックスを持っていたのではないかと云われています。

ですが、それを認めると藤原氏出身の女性に権威を与えてしまい、藤原氏の台頭を許してしまうものと警戒する皇族や貴族が反発し、長屋王が上奏を行い、聖武天皇が出した大夫人の勅は、撤回されてしまうのです。

聖武天皇は、この頃に基皇子(もといおうじ)を亡くします。

これには、聖武天皇に皇子がなく聖武天皇にもしものことがあった際に、血筋的に一番皇位継承に有力である長屋王が、皇子を亡き者にするため呪詛を行ったと噂が流れ、聖武天皇も皇太子を呪い殺されたと不信感を抱くようになりました。

そのうえで、長屋王が謀反を企てていると密告があったため、長屋王を家族ともに自害に追い込んでしまうのです。

これは長屋王の変と呼ばれ、聖武天皇即位後、目の上のこぶであった長屋王を排除するために藤原氏が計画した謀略だと云われています。

その後、737年に流行った天然痘により、藤原四兄弟全員が亡くなってしまいます。

藤原四兄弟の死は、冤罪で自害させられた長屋王の祟りとして噂されたりもしました。

聖武天皇は、基皇子の菩提を弔うために、若草山山麓に小さな山房を設けました。

これが後の東大寺となる羂索院です。

羂索院は、金鐘寺に名前が改められ、良弁により召喚されていた審祥より、聖武天皇は華厳宗の教えを受けました。

その影響により、信仰していた仏教に救いを求めるようになり、国分寺・国分尼寺を全国に建てるようにしたのです。

749年に娘である阿倍内親王(あべないしんのう)に皇位を継承すると、上皇となったのちも政務に当たっていました。

大仏建立の勅を出し、当初現在の滋賀県に大仏を造立しようとしますが、度重なる山火事や大地震の余震に会い、滋賀に作るのを諦め、平城京に戻り、ここに大仏を作ることになります。

大仏を作る場所に選んだのが金鐘寺であり、大仏で国中の安寧を願ったことから、東大寺の発願者となったのでした。

751年に大仏の完成とともに、開眼の儀式を行うことはできたのですが、756年に56歳で亡くなってしまい、大仏殿の完成までは見届けることができませんでした。

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良弁僧正

良弁僧正は奈良時代の華厳宗の僧です。

良弁僧正の仏門との出会いには、相模国の漆部氏の子として生まれ、法相宗の僧である義淵僧正(ぎえんそうじょう)に師事したという説と、近江百済氏の出身で、幼少期に大鷲にさらわれ、現在の二月堂前に立つ杉の枝にかかっているところを義淵僧正に拾われて育てられたという二つの説があります。

どちらの説が正しいかは不明ですが、義淵僧正のもと、法相宗の教えを学んだのは間違いのない事実です。

733年に羂索院(けんさくいん)の住職となり、740年に、華厳宗第3祖法蔵の門下であった審祥を招き、華厳宗を伝えました。

東大寺建立にも関わっており、751年には東大寺建立の功績より東大寺初代別当となり、756年には鑑真とともに大僧都(だいそうづ)に任じられました。

740年に、華厳宗第3祖法蔵の門下であった審祥を招き、華厳宗を伝えました。

当時の律令制の中で、僧侶にも階級が定められており、律師(りっし)⇒僧都(そうづ)⇒僧正(そうじょう)という順に位が高くなるようになっていました。
その階の中でもランクが分かれており、大僧都は僧都位の最高位にあたります。

763年には僧正位に昇り、その後773年11月16日に生涯を閉じました。

行基

行基は668年に生まれ、15歳で出家しました。

その際に良弁の師匠である義淵僧正や道昭(どうしょう)のもとで仏教を学びます。

行基は、仏教の布教と共に、貧しい人々を助けるために橋を架けたり、治水工事を行ったりするような土木工事も行っていました。

当時の仏教は、寺社内でのみ教えを説いていいことになっていたため、朝廷からは民衆を惑わす私度僧として弾圧を受けるようになりますが、聖武天皇が即位し、徐々に弾圧がなくなると、大仏づくりの責任者としての依頼がかかります。

その後、大仏だけではなく、国分寺をはじめとし、各地に寺の建立を進めていきました。

四国八十八ヶ所の札所にも、行基による寺の創建や本尊彫造など、関係している寺院が多くあります。

結果、朝廷からは、日本で最初の仏教界の最高位である「大僧正」が贈られます。

しかし、造立当時でも高齢であったため、尽力を尽くして指揮をとったものの、749年に81歳で、大仏の完成を待たずして亡くなりました。

菩提僊那

菩提僊那は、奈良時代の渡来僧です。

インドで生まれで、青年期にヒマラヤを越えて唐に渡りました。

唐では長安の崇福寺を拠点に活動をしていたのですが、その際に日本の遣唐使から、仏教の教えを伝えるために日本に渡ってほしいという要請を受け、日本に渡る決意をしました。

1度目は嵐に遭い引き返したのですが、2度目の渡航となった736年に日本を訪れ、大宰府に赴きました。

その後行基に迎え入れられ平城京に入り、当時東大寺などと並ぶ大寺院であった大安寺を拠点に活動を開始したのでした。

日本では、サンスクリット語や仏教の教えを日本の僧に伝える活動をしており、751年には朝廷より僧正を任じられました。

翌752年には東大寺の大仏である、廬舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養の導師を務めました。

その導師の最期は、760年、大安寺にて西の方向を向いて合掌したまま死去していたのだそうです。

2002年の開眼1250年法要に際し、菩提僊那像が制作され、東大寺本坊天皇殿に安置されています。

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東大寺の建物

東大寺の歴史や、建立に関わった四聖についてご紹介しましたが、東大寺の伽藍にも色々な歴史ある建物があります。

建立当時から残っている建物や、新しく作られたものなど、伽藍には数多くの建物が現存しています。

それらを建物別にご紹介します。

廬舎那仏(るしゃなぶつ)【毘盧遮那(びるしゃなぶつ)】

東大寺の大仏は、正式名正を廬舎那仏といいます。

また、別名で毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)ともいいます。

サンスクリット語で『太陽や光』を意味する言葉です。

『すべての万物を照らす者』という意味が込められた仏様となります。

つまり廬舎那仏とは、太陽という意味を持ち、『宇宙の中心から太陽のように照らし続ける』という意味が込められているのです。

華厳宗の華厳経の教理においては、廬舎那仏は釈迦如来と同じであり、衆生を救済する仏とされています。

仏教における中心的な仏様として大日如来がおられますが、密教における最高位の仏様であり、この廬舎那仏をさらに大きく発展させた存在なのだそうです。

この大仏は、749年に造立後、何度も再建されます。

861年、1195年、1572年、1691年と大きく4度の再建が記録されています。

高さは15mあり、重さは250トンあるといわれています。

鎌倉の大仏は11.3mであるため、奈良の大仏の方が大きいです。

大仏殿【金堂】

東大寺の金堂こと大仏殿は、中門から北へまっすぐに進んだところにある巨大な建物です。

大仏殿は752年、大仏が完成したのちに創建されました。

以降、平安時代末期、戦国時代と2度の兵火による焼失を経験しますが、鎌倉時代には、後白河上皇や源頼朝ら歴史に名を残す人々により再建されました。

江戸時代の再建時は、江戸幕府の力を持って再建したのですが、資金難や材料難といったことから、規模は当初より小さくなってしまいました。

創建時に11間(88m)あった建物の幅は、江戸時代の再建時には7間(57m)に縮小されてしまったのです。

奥行きは50.5m、高さ79.1mとなっていますが、これは、創建時とほぼ同じ大きさなのだそうです。

幅は縮小されたとはいえ、現在でも世界最大級の木造建築の1つとして数えられています。

江戸時代の再建以降は、明治初期と、昭和48年に補修工事を行っており、現在に至ります。

1898年に重要文化財に指定されており、のちの1952年3月には国宝に指定されました。

大仏殿の建物には観相窓と呼ばれる窓が設けられています。

この窓は普段は閉じられていますが、一年の中で限られた日のみ、開けられます。

この窓の扉が開くと、真正面に大仏様の顔が見られます。

下から見上げなければいけない大仏様のお顔を、正面から見ることできるように配慮して作られたものだといわれています。

二月堂

二月堂は、752年に創建された仏堂です。

平重衡の兵火、松永久秀の兵火では焼失を免れましたが、1667年のお水取りの際に引火してしまい、焼失してしまいます。

現在の建物は、その2年後の1669年に再建されたものとなっています。

建物は2005年12月に、国宝に指定されました。

二月堂は、『お水取り』を行う建物としても有名です。

このお水取りの正式な名称は修二会という名称で、旧暦の2月1日から行われていたことから、その名前が付いたといわれています。

大松明を手にした童子が、建物下で望む観客に、松明の火の粉を散らしながら舞台を周り、僧侶が人々にかわって罪を懺悔して国家の安泰を祈る法要で、8世紀から今日まで1260年以上も続く伝統行事となっています。

この2月堂には、本尊として、大小2つの仏像が祀られており、いずれも十一面観世音菩薩像となっています。

ただ、どちらの仏像も、いかなる人も見ることを許されない絶対秘仏として祀られています。

三月堂【法華堂】

三月堂は、法華堂とも呼ばれる仏堂で、東大寺建築物の中でも最も古く、東大寺創建以前の金鐘寺の遺構とされている建物です。

1897年に重要文化財に指定され、1951年には国宝に指定されました。

この仏堂は、不空羂索観音菩薩(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)を本尊とし、不空羂索観音菩薩立像を守護するように18体の仏像が安置されていました。

現在は、2011年に建てられた東大寺ミュージアムに、一部の仏像は移されたため、堂内には10体の仏像だけが安置されています。

こちらは、通常は非公開になっていますが、良弁の忌日である12月16日には、毎年一般公開されています。

四月堂【三昧堂】

四月堂は1021年の平安時代に創建された四辺6mの二重寄棟造(にじゅうよせむねづくり)で作られた重要文化財指定の建物です。寄棟造りを二層で作り、二重の寄棟になっているのが特徴です。

※寄棟造は、建築物の屋根形式で、4方向に傾斜する屋根面をもつもの。

出典:Wikipedia 

鎌倉時代に入り1282年に修理され、1681年に再建されています。

別名、三昧堂(さんまいどう)とも呼ばれています。

この三昧堂という名前ですが、1021年に仁仙大法師と助慶上人の2人が普賢三昧会(ふげんさんまいえ)を行う際に創建されたのがこの建物であり、この会の名前が堂舎の由来になっています。

この普賢三昧会とは、天台宗の「魔訶止観(まかしかん)」に解かれている三昧(心を不動にし、雑念を去り没入することで対象が正しくとらえられるとする)の一つである半行半坐三昧を法華経に基づいて行ったものです。

この二人の僧が修行に入ったのが4月であったことや、この普賢三昧会が4月に行われていたということから、四月堂とも呼ばれるようになったようです。

この四月堂は、ご本尊が何度も変わる歴史を持ちます。

2013年までは千手観音菩薩立像がご本尊として納められていましたが、現在は東大寺ミュージアムに移されて展示され、代わりに二月堂に祀られていた十一面観音菩薩立像が招かれ、ご本尊として安置されています。

この十一面観音菩薩立像は、元々は天理市にあった廃寺の桃尾寺に祀られていた像で、明治2年に東大寺の二月堂に移されたものです。

堂内には他にも普賢菩薩立像や阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像なども安置されていますが、普賢菩薩立像が初代の御本尊で、阿弥陀如来座像が次の本尊となり、千手観音菩薩立像、十一面観音菩薩立像へと変遷しています。

戒壇院【戒壇堂】

戒壇院は755年に創建された横幅12m、奥行き8mの寄棟造(よせむねづくり)の史跡名勝天然記念物の建物です。

1180年に焼失して以降、1446年、1508年、1567年と幾度かの火災に会い焼失しています。

現在の戒壇院は、1732年の江戸時代に再建されたものです。

戒壇とは、僧侶になるために神仏に誓いを行い、神仏の御心により僧侶となる許しを乞う儀式を行った場所のことをいいます。

仏教では、戒壇を受けることを「受戒」といいますが、当時の日本には受戒の発想はありませんでした。

さらに、戒律を授ける僧侶もいなかった時代でした。

仏教を学ぶにあたり戒を受ける必要があるため、754年に日本に渡来した中国人僧の鑑真(がんじん)は、石造りの戒壇を大仏殿に造営し、聖武上皇をはじめ、光明皇太后、孝謙天皇、その他440人に対し、国内で初めて受戒を行ったのでした。

この時に造営された石壇を大仏殿の西側に移設し、造営したのが現在の戒壇院なのです。

この戒壇院のみどころとしては、内部に配置されている国宝の四天王像です。

中央には多宝塔が建てられており、その右側奥に多聞天、左側奥に広目天、手前左側に増長天、手前右に持国天が配置されています。

また中央の多宝塔には重要文化財の如来坐像が2体安置されています。

これらは752年に作られたと伝えられており、銅造釈迦如来坐像と銅造多宝如来像の2体になります。

南大門

南大門は、寺院の伽藍配置で一番外側の南側に位置する門のことをいいます。

中門の手前にある門で、寺院の玄関ともいうべき門です。

752年頃に創建されたといわれ、1161年、1199年に再建され、1203年には門内に安置されている仁王像の再建も行われています。

間口は5間(12m)あり、出入り口が3つもある、とても大きな建物です。

1897年には重要文化財に指定され、1951年6月には国宝に指定されました。

この門の上部には、『大華厳寺(だいけごんじ)』という名前が飾られています。

これは、華厳宗総本山である東大寺の異名であり、東大寺の前身である金鐘寺から東大寺に名称変更を行う際に候補として挙げられた名称の一つだと言われています。

南大門の最大の見どころとして金剛力士像があげられます。

この像は、752年に造立され、1203年に再建され、1991年には大規模な解体修理を行っています。

高さは8.4mあり、重さも6.7tある非常に大きな像となります。

南大門が国宝に指定された1年後に、金剛力士像も国宝に指定されています。

まとめ

奈良の大仏が鎮座する東大寺ですが、とても広大で、数多くの仏堂が立ち並ぶ巨大な伽藍を持つお寺です。

その歴史には数々の物語もあります。

今日の東大寺が、いかにしてあるのかという歴史を知ると、また興味深くなるものではないでしょうか。

ぜひ、今一度歴史を学んでみて参拝してみてはいかがでしょうか。

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