京都五山物語~天龍寺・元祖禅寺の歴史~

天龍寺の歴史

京都には歴史ある5つの禅寺、通称「京都五山」があります。その中でも室町幕府によって定められた地位が「第一位」と言われている寺院が天龍寺(てんりゅうじ)です。京都五山の中でも一番長い伝統を持つこの寺院は、一体どんな歴史をたどってきたのでしょうか。

今回の京都五山物語は天龍寺です。

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●第一話 平安時代の禅宗

京福電鉄嵐山線「嵐山」駅を下車してすぐのところに、天龍寺はあります。世界遺産にも認定されているこの寺院にはどのような歴史が秘められているのでしょうか。

日本文化の代表として語られる「禅」。鎌倉時代に中国から伝来し、武士階層を中心に急速に広まったと言われています。しかし、意外なことに、それ以前にも、一度だけ中国から伝来されたことがあります。

時は、9世紀前半、仏教に深く帰依していた、当時の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)によって、招かれた中国の僧侶がいました。その名は義空(ぎくう)。彼は嘉智子の使者からの誘いを何度も断ってきましたが、最終的には来日を決意しました。

来日した背景には、「会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)」がありました。これは、当時中国を支配していた唐王朝によって行われた、仏教の排斥運動です。これによって中国で発展していた多くの寺院が廃止されました。

義空はそれから逃れる形で日本に入ったと言われています。そして、義空が来日したことによって、嘉智子は檀林寺(だんりんじ)という寺院を今の天龍寺付近に建立いたしました。日本史上初の禅寺です。

しかし、嘉智子の死以降は、禅の勢いは急速に衰え、鎌倉時代に入るまで雌伏の時代を余儀なくされます。そして檀林寺は荒廃の一途をたどりました。現在の檀林寺は1964年に建立された真言宗の寺院であり、禅寺だったころの檀林寺とは直接の関係はありません。

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●第二話 後醍醐天皇と足利尊氏、そして夢窓疎石

鎌倉時代になると、栄西(えいさい)などの禅僧の普及活動によって、禅が日本全体に広まっていきました。この頃には、檀林寺があった地に「亀山殿」が建てられました。後嵯峨上皇や亀山上皇が離宮として利用しました。そして、亀山上皇の血統である「大覚寺統(だいかくじとう)」を引く後醍醐天皇にもゆかりがあります。

※大覚寺統:亀山天皇から続く皇室の系統

後醍醐天皇は歴史の教科書にも記載されている有名な天皇です。鎌倉幕府を打倒し政治の実権を再び京都の朝廷に取り返そうと考えました。二度にわたる倒幕計画は失敗し、遠方への流刑に処せられましたが、消えることなき執念と、楠木正成(くすのきまさしげ)らをはじめとする全国各地の支持者の活動によって、1333年、ついに幕府の打倒に成功しました。これによって、朝廷を中心とする「建武の新政」が後醍醐天皇を中心に行われました。

しかし、朝廷の公家を中心としたその政治構造によって、倒幕の主力となった武士勢力が不満を抱くようになりました。そして、武士勢力の代表である足利尊氏(あしかがたかうじ)はやがて後醍醐天皇と対立しました。

尊氏は後醍醐天皇と別の血統である「持明院統(じみょういんとう)」の光明天皇を擁立し、もう一つの朝廷を構築しました。尊氏が室町幕府を開くことができたのも光明天皇から征夷大将軍に任命されたからです。

後醍醐天皇は尊氏によって京都を追われ、奈良の吉野で勢力を維持、そして、後醍醐天皇率いる「南朝」と尊氏を中心とする「北朝」の対立は日本全土を巻き込み、半世紀にわたる「南北朝の争い」が行われました。後醍醐天皇はその終結前の1339年に崩御してしまいます。天皇の座にありながら、戦場を駆け巡った波乱の生涯でした。

この後醍醐天皇の死によって、心を痛めた人物がいました。足利尊氏です。尊氏は元の名を「高氏」といい、「尊」の字は鎌倉幕府を追討した功績から後醍醐天皇の本名である「尊治」から一字を与えられたものでした。

尊氏は、後醍醐天皇と対立した後もその字を用い続けました。後醍醐天皇個人には恨みを抱いておらず、むしろ尊崇の念すら持っていたことがわかります。そして尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔おうと、寺院の建立を立案しました。そして、大覚寺統にゆかりある亀山殿に禅寺の建立を決めました。

開山には夢窓礎石(むそうそせき)が選ばれました。夢窓疎石は、禅僧でもきっての人脈と博識を持つ男でした。彼は天台宗・真言宗の知識にも通じ、全国各地で禅寺を開きました。そして、後醍醐天皇の招きで南禅寺の僧侶になった後、その政敵にあたる鎌倉幕府からも信頼を得ました。そして、鎌倉幕府崩壊後は足利尊氏からも信頼されました。

こうして、足利尊氏そして夢窓疎石の尽力によって、1345年に天龍寺は建立されました。後醍醐天皇の死から6年後のことです。なぜ建立に6年も時間がかかってしまったのでしょうか。次の項目で見てみましょう。

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●第三話 天龍寺船とその後

当時は、日本中が戦乱に包まれていました。戦に次ぐ戦に明け暮れ、寺院を建立させる財源など室町幕府にはありませんでした。それでも後醍醐天皇の菩提を弔いたいと悩む尊氏。夢窓疎石と相談した結果、ある方法で財源を確保することを思いつきました。それは、中国との貿易です。

「寺社造営料唐船(じしゃぞうえいりょうとうせん)」という貿易船を中国に派遣し、銅や陶磁器などを獲得したのです。寺社造営料唐船の派遣は天龍寺に始まったことではなく、主に鎌倉幕府が主体となって事あるごとに派遣していました。なお、今回の寺社造営料唐船は天龍寺船と言われます。

この貿易船を用いる案には、尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)の助言が大きくかかわっていると言われています。直義は室町幕府の「副将軍」として、実質的な政務を担当。朝廷や寺社勢力との折衝に長けていました。夢窓疎石は直義とも親しく、足利兄弟と夢窓疎石との問答は史料にも残っています。

その後、天龍寺は京都五山の地位「第一位」として禅寺の権威に君臨しましたが、相次ぐ火災によって、創建当時の面影はほとんどないと言われています。その一方で、近代以降はそのたたずまいから映画のロケ地として注目されるようになり、かなりの頻度で撮影が行われたようです。

法堂の天井画には今でこそ加山又造(かやままたぞう)の作品が描かれていますが、その前は、日本画家の鈴木松年(すずきしょうねん)によって描かれた雲龍図が描かれていました。鈴木は、荒々しい画風から、京都の画壇の重鎮として君臨し、近代日本美術の発展に貢献しました。海外の博覧会にも多数出展し、いくつかの作品は賞を取ったほどです。

そして、1994年には、「古都京都の文化財」として、金閣寺や二条城など京都の代表的な観光地を含めた16箇所の寺社城郭と共に世界遺産に認定されました。

登録基準の一つには「ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの」とあります。

天龍寺はまさに、日本、いや世界にとって大きな価値を残していったのです。

いかがでしたでしょうか。日本の文化はガラパゴスと呼ばれることが多いようですが、必ずしもそうとは言えません。海外からの文化を取り入れ、それを咀嚼した結果、今の日本文化が誕生しているのです。そして、それをアウトプットすることによって世界からも認められているのです。室町幕府によって定められた京都五山の地位が最も高い天龍寺、以上の歴史を踏まえた上で、一度ご覧になってください。

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