戦国武将 真田幸村の一生!生まれから最後の戦いまでその生涯を徹底解説

真田幸村の生涯

安土桃山時代から、江戸時代初期にかけて活躍した騎馬武者・真田幸村(本名・真田信繁)。

戦国時代をモチーフにした漫画やゲームにもよく登場している人物ですが、そんな彼の史実における活躍のすべてを知らないという人も多いでしょう。

今回はそんな真田幸村の生涯について、じっくりとお話していきたいと思います。

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【謎に包まれた幼少期】

真田幸村は1567年に真田昌幸の次男として、甲府(山梨県)にて生を受けたと言われています。

幼名は「弁丸」。
ちなみに「幸村」というのは江戸時代に書かれた文献による通称にあたり、本名は「真田信繁」です。

武田信玄の弟である「武田信繁」を尊敬していた父・真田昌幸が、自らの次男にも「信繁」という名を与えたと言われています。

母親は真田昌幸の正室・「山手殿」。
また、兄に幸村と同じく戦国武将の「真田信之」がいるのは有名なお話ですね。

実は、真田幸村は幼少期どういった生活を送っていたのかがはっきり明かされていません。

それどころか生年すらはっきりしておらず、1567年だけでなく、1582年説もあったりと複数の言い伝えがあります。
没年が1615年で、享年47~49歳であったことは判明しているので、1567年誕生説が濃厚でしょう。

【人生の最初の転機】

弁丸(幼少期の真田幸村)の人生に初めて転機が訪れるきっかけとなるのが、父・真田昌幸の主である「武田家」が滅亡した時です。

この時弁丸は、父・母・兄と共に武田氏の本拠地である新府城にいました。

しかし武田家の当主・武田勝頼は、新府城を手放す際に城に火を放ってしまうのです。
そしてその数日後に切腹し、その生涯を終えたと言われています。

主が戦に負け、住んでいた場所も燃やされてしまった訳ですから、弁丸は父・母・兄と共に真田の本拠地まで落ち延びる事となりました。

その後、父・真田昌幸は武田領内に侵攻してきた織田家にやむを得ず臣従することとなり、ひとまず真田家の本領は守られます。

しかしまたもトラブルが。
仕えていた織田信長・織田信忠親子が、家臣・明智光秀の謀反により引き起こされた「本能寺の変」にて力尽きてしまうのです。

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【真田幸村、人質生活の始まり】

織田軍の司令官であり、真田昌幸を指示する立場にあった人物・滝川一益。

しかし滝川は、主君が死んでしまった事で後ろ盾を失い、進出してきた北条軍と戦って破れ、伊勢まで撤退します。

織田軍が完全撤退した事で、次は徳川家・北条家・上杉家の三大勢力が新たに争奪戦を繰り広げ始めました。

上司であった滝川一益が落ち延びていった後、真田昌幸は独自で行動を開始。

真田家勢力を維持させる為に、最初は上杉家、次に北条家へと従属する事となります。

しかし北条家に従属時、真田の管轄である「沼田領」を明け渡すよう要求されるのですが、昌幸はこれを無視します。

さらに北条家と徳川家が関係を強化した事で、いつ沼田領を奪われるかわからないと危惧した昌幸は、北条家から離れて再び上杉家へと従属することにしました。

この時、真田幸村は人質として上杉領である越後に送られます。
もう上杉家を裏切らない、という証の為ですね。

そして、この時点で上杉家は豊臣秀吉にいち早く臣従していたため、真田家は事実上豊臣家の傘下に入ったという事になります。

【第一次上田合戦】

沼田領引き渡しの要求に応じない真田昌幸に業を煮やした徳川家康は、真田家が常駐している信濃・上田城に兵を派遣してきます。

これをきっかけに、「第一次上田合戦」が勃発しました。

徳川の兵7,000に対して1,200ほどの兵力しか持たない昌幸。
しかし持ち前の知略を発揮し、鉄砲隊や川の堰を切って水攻めするなどの奇策を用いて、自軍への犠牲を最小限に留めたうえで徳川軍を撃退します。

豊臣秀吉ですら勝てなかった徳川軍に、徳川の5分の1程度しかないわずかな兵力で大勝利をおさめた真田昌幸は、周りから一目置かれる存在に。

この上田合戦にて華々しい活躍を見せたことにより、真田昌幸は上杉家を通じて豊臣秀吉直属の独立した大名として扱われるようになるのです。

これによって、幸村はまたも人質として、今度は豊臣領・大坂へと送られました。

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【豊臣領での地味な半生】

真田幸村は晩年でこそ華々しい功績を残しますが、豊臣領・大坂での人質時代はパッとしない人生を送っていました。

特別、戦で功績を残した記録もありません。
しかし唯一、左衛門尉という官位を任され、豊臣の姓をもらったという話が伝えられています。

幸村はこの大坂滞在時に、豊臣家の家臣である大谷吉継の娘と結婚します。

さらに大谷の母は秀吉の妻・高台院の縁者だった事もあり、幸村はより一層豊臣家との繋がりが深い立場に。

人質として豊臣領に送られたといっても、特に肩身が狭いなどという事もなく、むしろ豊臣家とは良好な関係を築けていたと伝えられています。

ちなみに幸村の兄である真田信之は、徳川家康の娘婿となっていました。

血の繋がった兄弟でありながら、それぞれ豊臣家・徳川家と縁が深くなってしまったことで、立場上、兄弟の間には距離が生じてしまう事となりましたが、この後の戦や生活で影ながら信之が幸村をサポートするシーンも見られます。

【関ヶ原の戦い・勃発】

天下の男・豊臣秀吉が死去したのち、再び新たな勢力争いが起こります。

その流れから勃発したのが、かの有名な「関ヶ原の戦い」。
真田幸村が33歳になった時の出来事でした。

そしてこの戦が、幸村にとっての初めての大舞台となります。

父の昌幸と幸村は石田三成側である西軍に、そして兄の信之は徳川家康側である東軍。

これは父・昌幸が石田三成と血縁関係がある事と、兄・信之は徳川家康の娘婿であることから、当然ともいえる流れであったといいます。

この時、真田昌幸が守っていた上田城にて行われた戦を「第二次上田合戦」と呼んでいます。

しかしこの戦でも目立った功績を残したのは、見事な手腕で上田城を守り抜いた父・昌幸のみ。

幸村は、この戦いでも名声を挙げることはできずにいました。

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【真田幸村・武将の地位を剥奪される】

上田城は死守できたものの、結果的には徳川家の勝利に終わった関ヶ原の戦い。

後継者である秀忠をやりこめた事で、真田昌幸と幸村は、家康の怒りを買っていました。
危うく処刑されるところでしたが、兄・信之と本田忠勝の懇願により、なんとか処刑は免れます。

その代わり昌幸と幸村は、武将としての地位を失い、紀州(和歌山県)へと流される事となりました。

兄・信之からの仕送りや商品の販売などで生計を立てながら、子供も何人か授かり、「連歌」という趣味も楽しんだりと、それなりに充実した日々を送ったようです。

そんな暮らしが何年も続き、気付けば年齢は40を超えてしまっていた幸村。
一武将として、戦でいまだ功績を残せていないことが彼にとっては心残りであった事でしょう。

あの真田幸村が、まさかのこの歳まで目立った功績を残せていない事は、意外な現実でもありますね。

しかし、幸村が47歳になったある日、彼にもとうとう一世一代の大舞台がやってきます。

【真田幸村が最も功績を残した戦い「大坂の陣」の始まり】

時を経て、ますます仲が悪化していた豊臣家と徳川家。
この頃の家康はとにかく豊臣家を滅亡させようと、なにかと豊臣側に難癖を付けて豊臣氏が戦争を仕掛けることを促してきます。

1614年、とうとう徳川家康が「豊臣秀頼を討て」と命じます。
こうして、戦国時代最後の戦と呼ばれる「大坂の陣」が勃発するのです。

日本全国の大名を味方に付けている家康とは逆に、大坂城周辺を支配する力しか持たない不利な勢力であった豊臣家。
豊臣氏は、味方を得るために関ヶ原の戦いで領地を失った浪人達に声をかけました。

この時和歌山に流されていた真田幸村もまた、豊臣側から声をかけられた事をきっかけに、再び戦いに身を置く事を決意するのです。

そして、1611年に死去してしまった父・昌幸の旧臣達を集め、少数の軍を結成。

村人の助けなどを得て和歌山・九度山を脱出した幸村は、数年ぶりに大坂城へと入城することになります。

しかし、この時点で豊臣氏はあまり幸村に大きな期待を抱いてはいませんでした。
大坂城にやってきたのが数々の戦で功績を残した真田昌幸ではなく、無名である息子の幸村であると聞いた時はガッカリしていたとの事。

さらに、家康にしても幸村のことをまともに相手にしていないような状態。
「真田一族が大坂城に入った」という知らせを受けた家康がまず使者に尋ねたのは、「篭城した真田は親か子かどっちの方なんだ」という事。

使者が、親の昌幸は既に病死している事、そして篭城したのは子の幸村であるということを伝えると、家康はホッと胸を撫で下ろしたといわれています。

大坂入城時点ではこの通り情けない有様の幸村でしたが、この後の戦にて彼の大どんでん返しが始まるのです。

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【大坂冬の陣①作戦会議】

全国の大名を従えるほどの権力を持つ徳川家康の軍は総勢20万。
数だけなら、豊臣家には到底太刀打ちできないほど強大なものでした。

そこで豊臣側は、自軍の持つ「大坂城」が強固な防御力であることを利用し、篭城作戦に徹しようとします。

ここで異論を唱えたのが真田幸村と、彼の良き理解者であった後藤又兵衛。
幸村達は、篭城とは逆に積極的に家康を迎え撃つ事を提案します。

「兵力はあちらが圧倒的に高いのだから、篭城してるだけでは勝てない」と。

それなら兵力を西日本に幅広く分散し防衛戦を張って、敵を迎撃した方が良いと考えたのです。
さらに長期戦に持ち込み、徳川軍を疲弊させた方が豊臣軍の勝率を上げられる可能性も出てきます。

篭城作戦は、あくまで最終策にとっておくべきだと幸村達は主張しました。

しかし、豊臣の上層部は断固篭城するべきであると幸村達の作戦を却下します。
ただでさえ寄せ集めの兵に多くの犠牲が出てしまえば元も子もないと考えたんですね。

上層部がこう言うなら従うしかないと、幸村達はやむなく篭城という方向で作戦を考え直すことにします。

【大坂冬の陣②真田丸】

まず幸村は、防衛力の高い大坂城の弱点ともいえる南側の守備に目を付けました。
そしてなんと、この手薄の部分に自らの出城を作って、ここで徳川軍を迎え撃とうと考えたのです。

こうして建てられた真田幸村の砦は「真田丸」と名付けられました。
真田丸が出来た事で、大坂城の守りはますます強化され、まさに難攻不落の城と化したのです。

やがて徳川の攻撃が始まり、大坂城は20万もの大軍に包囲されましたが、幸村は真田丸に篭城しつつ積極的に応戦を考えます。
自ら徳川の軍隊を次々と挑発する事で標的を真田丸へと向けていき、敵兵を鉄砲隊でひたすら撃ち落とすという作戦に出たのです。

大坂冬の陣の中で、ここまで徳川軍を一方的にやり込めることができたのは、この真田丸での攻防戦だけであったと言われています。

「真田丸」が出現したことにより、もはや難攻不落となった大坂城を攻め落とせない徳川軍。
次の作戦として、長距離砲で大坂城の主の住む居住区を攻撃し始めました。

これにより一部死傷者も出てしまった為、大坂城の主・淀殿は徳川家康と講和するという選択をすることに。

せっかくあれほどの功績を残した「真田丸」でしたが、家康の講和の条件により破棄されてしまいました。

こうして1614年・大坂冬の陣は終わりを迎えましたが、真田丸を築き、鉄砲隊と共に徳川軍をやり込めた幸村の功績は、多くの人から評価されることとなります。

真田幸村は、40代後半にしてようやく人生初の名声を挙げることができたのです。

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【大坂夏の陣にて善戦するも…】

1615年、今度は「大坂夏の陣」という戦いが勃発します。

しかし、この時の大坂城には、もう冬の陣の時のような防衛力はありませんでした。
「講和の条件として一部の堀を埋め、真田丸を撤去する」という話だったはずが、徳川軍が勝手に大坂城の堀をすべて埋めてしまったのです。

よって籠城作戦そのものができず、幸村達は野外での戦闘を余儀なくさせられます。

さらにこの時の軍勢は豊臣軍が5万、徳川軍が15万と言われており、まともにやり合ってもまず勝ち目はない戦力差でした。

そこで豊臣側が取れる効果的な作戦といえば、家康本陣に奇襲をかけることのみ。
総大将である家康の首を討ち取ることしか、この窮地を打開する術がなかったのです。

家康本陣に攻め込む奇襲隊に加わった真田幸村。
トレードマークである赤の鎧に包まれ、果敢に突入し、一度は完全に徳川軍を混乱に陥れました。

幸村率いる奇襲隊のあまりの勢いの強さに、あの家康が一度は自害を覚悟したほど。

撤退していく家康を、ひたすら追い続けていく幸村。
しかし、やはり自軍の3倍もの戦力を誇る徳川の大軍には敵いませんでした。

残りの徳川軍に包囲され殲滅させられる奇襲隊。
幸村も奮戦したものの、あえなく討ち取られてしまいます。

こうして宿敵・徳川家康の本陣の中で、真田幸村は49年の生涯を終えました。

そして幸村はこの戦いで没した後、最後まで家康に立ち向かい続けた「日本一の兵(つわもの)」として、敵味方問わず多くの人たちに評価されていくのです。

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【真田幸村は、なぜここまで有名になれたのか?】

謎に包まれた幼少期・大半を人質として過ごした少年〜青年期・そして壮年期は浪人という立場から脱し、「大坂の陣」にてめくるめく出世を果たした真田幸村。

しかし、幸村は「大坂冬の陣」にて初めてその名を轟かせたものの、その後1年もしないうちに「大坂夏の陣」で亡くなっています。

歴史的な活躍を残した期間がたった1年しかなかったにも関わらず、真田幸村はどうしてここまで後世に語り継がれるようになったのか?

大坂夏の陣での幸村の散り様を見た敵武将が、「日本一の兵」と評しただけでは少々弱い気もしますよね。

そう、幸村の勇姿を褒め称えたのは敵武将だけではありませんでした。

徳川家に不満を持つ庶民達にとっても、家康を完膚なきまでに追い詰めていく幸村の姿は、まさに正義のヒーローそのものだったのです。

宿敵の徳川家康でさえも、討ち取った幸村に対して敬意を払い、当時では異例の首実験を行ったほど。

敵味方問わず多くの人々が、真田幸村の活躍を後世まで語り継いでいったのです。

そして大正時代には、立川文庫より刊行された「真田幸村」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」など、真田幸村と真田十勇士をテーマにした作品が次々と登場します。

これにより、真田幸村の名前はどんどん世に広まるようになりました。

【真田幸村に仕えた「真田十勇士」とは?】

「大坂の陣」にて真田幸村に仕え、共に戦ったと言われているスペシャリスト集団です。

実はその存在自体が定かではなく、創作上での存在である説や、実際に真田家に仕えた人物をモデルに語られるようになった説などが有名です。

メンバーは以下の10人と言われています。

⑴猿飛佐助(モデル:猿飛仁助・上月佐助)
⑵霧隠才蔵(モデル:霧隠鹿右衛門)
⑶三好清海入道(モデル:三好清海)
⑷三好伊三入道(モデル:三好政勝)
⑸穴山小介
⑹由利鎌之介
⑺筧十蔵
⑻海野六郎
⑼根津甚八
⑽望月六郎

⑴〜⑷までのメンバーは、実在した人物をモデルにした架空の人物と言われており、⑸〜⑽までのメンバーは実在した同名の人物をそのままモチーフに描いているとされています。

ここまで実在の人物を扱っているにも関わらず、一般的には「フィクションである」という見解が強いよう。

とはいえこの「真田十勇士」が、歴史人物としての真田幸村をさらに引き立たせる存在となった事は、後世を見ても明らかです。

遅咲きの戦国武将であり、あの徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めた男・真田幸村。

戦争に振り回され続けたその一生は、なかなかに波乱万丈なものであったと伝えられています。

一貫して不遇ながらも、最後まで徳川に立ち向かい続けた幸村の姿は、当時はもちろん数百年が経過した今でもたくさんの人々を魅了し続けています。

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