サハリン 樺太の歴史からみる観光・旅行のすすめ
歴史から見るサハリン 樺太の観光・旅行のすすめ
サハリン(日本名:樺太)は、北海道の稚内から宗谷海峡を隔てて、南北に800kmほどの南北に細長い島です。最も細いところで長さは27kmしかありません。
サハリン州の州都はユジノサハリンスクで、南半分は「南樺太」として、日本が実効支配していた時期がありました。日本名である「樺太」は「神が河口に造った島」というアイヌ語、「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」から生まれました。一方のロシア名であるサハリンという名前は、満州語の「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ」からきています。
この島はもともとアイヌやウィルタ・ニヴフといった先住民族が住んでいる島でした。間宮林蔵(まみやりんぞう)が探検し、サハリンが島であることを発見したのは有名な話です。しかし、ロシアの南下政策、ならびに日本の幕府の北方対策によって地政学的に重要な島となり、両者が混在する島になりました。
しかし、1875年に締結された樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約とも呼ばれる)により、千島列島全島を日本領とする代わりに、サハリン全島がロシア帝国領になりました。1890年にはアントン・チェーホフが島を訪問し、流刑地となっていたサハリンに関してのルポルタージュ、「サハリン島」を執筆しました。
1905年の日露戦争の結果、敗戦国であるロシアは、北緯50度線以南の南樺太を日本に割譲することになりました。その後は、林業と漁業の島として、日本人をはじめ、朝鮮の人々、少数民族、残留ロシア人など、40万人あまりの人々が居住していました。
寒村であったウラジミロフカ村は豊原と改名して、1937年には日本最北の市、豊原市になりました。豊原という市名についてですが、北海道大学の井潤裕氏によれば、チェーホフの「サハリン島」の一節、「農業植民地としては北部の両管区を合わせたほどの価値を持っている」の一文を参照にして、豊かなる土地という意味で名付けたのではないかと推察されています。
日本編入後は、鉄道が敷設され、かの宮沢賢治も教え子を王子製紙への就職あっせんのために樺太を訪れていて、当時鉄道の終点であった栄浜(スタロドブスコエ)に足を延ばしていたとされています。
樺太の暮らしはとてもよく、朝10時に仕事が始まり、夕方の3時には仕事が終わって、しかも寒地であるため、給料は本土と比べて格段に良かったようです。魚介類も豊富で樺太は「幸の島」と呼ばれていました。のちに外地から内地に編入することになります。
しかし、1945年(昭和20年)8月に、ソ連軍が南樺太に侵攻して、終戦の後も激闘が繰り広げられました。特に、真岡(ホルムスク)における9人の乙女の自決事件はこの悲劇の象徴となりました。この様子は「氷雪の門」という映画に詳しくうつしだされています。
戦闘が終わり、1947年から1949年には、大多数の日本人が引き揚げ(ただし、樺太に残留せざるを得ない人も少なからず存在したほか、朝鮮の人々は韓国への引き揚げを許されませんでした)、遠い異国の地となってしまったサハリン(樺太)は、特別な許可を得た一部の墓参団のほかは、永くその門戸を閉ざされてきました。
この状況が変わったのがゴルバチョフ大統領のペレストロイカです。これにより、一般の観光客もサハリンを訪れることが可能になりました。1994年には函館との直行便もでき、ユジノサハリンスクに日本総領事館も開設されるなど、日本とサハリンの交流は活発になっています。
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・日本からのアクセス
札幌・新千歳空港からのアクセスが主になります。オーロラ航空がユジノサハリンスク・ホムトヴォ空港まで直行便を週4便、ヤクーツク航空が東京・成田からの直行便を週2便運航しています。
また、株式会社北海道サハリン航路が夏季に限り稚内港からサハリン・コルサコフ(大泊)までの旅客船を運航しています。コルサコフまでのフェリーに関しては、ビザが緩和され、2018年1月1日より簡易的な電子ビザでの訪問が認められるようになりました。さらに、2018年9月1日より、空路においても簡易的な電子ビザによる訪問が認められています。
・ユジノサハリンスク
旧・豊原市、川上村と豊北村の一部を含むサハリン最大の都市で人口は19万人を超えます。ススヤ(鈴谷)川が市内を流れ、札幌市と同じ碁盤目状の街並みが広がっています。
町の中心は、南北に貫く目抜き通りのレーニン通りと東西に貫くコミュニスト大通りで、その交点よりやや西にユジノサハリンスク駅(旧:豊原駅)があります。位置は日本時代と変わっておらず、北の町、ノグリキへ向かう列車のほか、ポロナイスク(敷香)やトマリ(泊居)へ向かう列車も運転されています。
この駅の北側には鉄道博物館があって、日本でも「デゴイチ」の愛称で知られるD51型機関車の22号機(ソ連輸出用の22号機)は日本の小海線で活躍し、サハリンの鉄道で活躍したキハ58形気動車も置かれています。
サハリンの1番の建築物といえばやはり、サハリン州郷土史博物館でしょう。貝塚良雄が設計した日本風の建物はここがかつて日本であったことを思い出させてくれます。中にはサハリンの自然や、先住民族たちの文化、全島ロシア時代、そして南樺太が日本によって統治されていた時代の展示もあります。その中には、旧国境を示す、4つの標石のうち、1号標石の実物が展示されています。また、屋外には、日本軍が実際に使っていた戦車や大砲、戦前、天皇の御真影を収めていた奉安殿も移築されて残っています。
西には、チェーホフ文学博物館があります。ここは、アントン・チェーホフがサハリンを訪れて書いた「サハリン島」という小説の世界を再現した当時の囚人の部屋などがあり、辺境の地、サハリンに流された人々の労苦がしのばれます。当時のサハリンに流刑された人は、政治犯や何回も犯罪を犯した人などが対象で、歩いてシベリアを横断させられたそうです。チェーホフゆかりの地ということで(実際にユジノサハリンスクにもチェーホフは訪れています)町中には、彼の作品の登場人物の銅像などのモニュメントがみられます。
中心市街地の北東に位置するガガーリン公園は、昔、豊原公園と呼ばれ、市民の憩いの場として親しまれていました。ここには、「王子ヶ池」という石碑が残っている通り、王子製紙の製紙作業に使う用水を汲む場所でした。今でも市民の憩いの場となっているほか、子ども鉄道(アトラクションと、職業訓練の一環として子どもが運営する鉄道)も園内に敷設されていて、乗車もできます。
チェーホフ博物館の西には、北海道拓殖銀行豊原支店だった建物が、美術館として利用されています。ここには企画展のほか、なかなかお目にかかれない北朝鮮美術の水墨画や陶磁器、また、イコンや、サンクトペテルブルクで模写された教会の壁画が展示されています。模写とはいえ、共産主義革命の一環で破壊され、現物は散逸しているので、ここでしか見ることができないものです。
郊外に目を向けると、旭が丘と呼ばれた、山の空気展望台にゴンドラに乗っていくことができます。その眺めはユジノサハリンスクの市街を一望できる素晴らしいものです。そのふもとには21世紀になって建立された極東ロシア屈指のロシア正教会があり、その大きさに圧倒されることでしょう。
一方、ホムトヴォ空港のある南へ目を向けると、日本人墓地があり、樺太で亡くなったすべての日本人を祀っています。その周辺には朝鮮の方々の墓地が目立ちますが、これは徴用で連れてこられたり、出稼ぎに樺太へ来た人たちの墓です。
ユジノサハリンスクの南にあるシティ・モールは、極東でも有数の巨大ショッピングモールです。ここには、北海道のチョコレートメーカーのROYCEの店など、日本企業が進出している様子がうかがえます。実際、日本製品はサハリンでもとても人気があって、日本車や日本のトラックがそのままの塗装で走っているのも珍しくありません。クマの博物館も併設されていて、1日中いても飽きることはないでしょう。
・コルサコフ
ユジノサハリンスクの南側に位置するアニワ湾沿いの町です。大泊と呼ばれ、稚内から来たフェリーは日本時代から使われている桟橋に着きます。ここでは旧北海道拓殖銀行大泊支店の建物が残っており、近年、改修工事が行われました。
そのほか、亜庭神社の石段などに日本時代の名残を見ることができます。そして、歴史博物館には、日本時代の展示も充実しています。地ビールが有名で「ペンギン・バー」という店で飲むことができます。
・ホルムスク
サハリン第2の都市で、日本時代は真岡(まおか)と呼ばれていました。第二次世界大戦の終戦後はソ連軍の上陸作戦が行われ、真岡郵便局の9人の乙女の自決事件は、後世まで語り継がれています。「みなさん、これが最後です さようなら さようなら・・・」の一言は胸を打つものがあるでしょう。
その郵便局は建て替えられていますが、今でも郵便局として使われています。町は空襲や射撃でほとんど失われましたが、真岡神社跡には、当時の石段や手水舎の跡がはっきりと残っています。そして、町の南にある王子製紙のパルプ工場は巨大な廃墟になって今でも残っています。
・ドリンスク(落合)
ドリンスクは落合と呼ばれていて、ここにも王子製紙の工場跡がありますが、事務所が今でも使われています。そして、草陰には奉安殿が残っています。
・スタロドブスコエ(栄浜)
スタロドブスコエは昔、栄浜と呼ばれていて、宮沢賢治が亡くなった妹のとし子の魂を追って、当時鉄道で行くことのできた最北端である栄浜に着くのです。しかし、訪れたことは確かですが、ここでばったり消息を一時絶ってしまい、日記に何も残していません。
一説によれば、近くの白鳥湖に行っていたとされています。これは、「銀河鉄道の夜」に登場する「白鳥の停車場」に関連していると推測されています。
今のスタロドブスコエは寂しい寒村で、今は宮沢賢治が乗った鉄道は廃線になり、レールをはがされています。琥珀を拾うことができる琥珀海岸がありますが、オホーツク海の波がただ響くだけです。
・ブズモーリエ
ブズモーリエは白浦と呼ばれていました。ここでは、皇紀2600年に建立された鳥居が残っています。鳥居が残っているのは、トマリそして、ここにはカニの売り子が並んでおり、カニを売る姿が名物になっています。2018年現在、タラバガニは1杯500ルーブル(=1000円)。
いかがでしたでしょうか。「サハリン」と聞いても何があるのかわからない方も多いと思います。人口19万人のユジノサハリンスクが宗谷岬の北にあるのも不思議に感じますし、サハリン州政府も日本時代の建物を非常に大切にしています。
ソ連時代とは比べ物にならないほど美しくなった街並み、日本時代の「忘れ去られた歴史」、そして「幸の島」とよばれるように豊かな大自然、新鮮な魚介類や山の幸など、サハリンは訪れるたびにその表情を変えます。ぜひとも訪れてほしい島です。