応仁の乱とは?簡単にわかりやすく解説

応仁の乱のまとめ!わかりやすく簡単に

室町時代後期に、約11年に渡って繰り広げられた戦い。それが応仁の乱です。足利将軍の無気力から始まり、敵と味方がころころ入れ替わりながら争い、結局何の成果も生まなかったこの戦いは、一体何だったのでしょうか。

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応仁の乱とは

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に起こり、約11年間にわたって継続した内乱のことです。

守護大名の後継者争いから、有力大名の細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん(山名持豊(もちとよ))の勢力争いにつながり、幕府の後継ぎ争いも絡んで、全国的な戦争となりました。

乱に至る経緯

足利義政(あしかがよしまさ)の父である6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)は、もともと僧侶でしたが、5代将軍の急死に伴いくじ引きで選ばれて還俗(僧籍から俗世の人に戻ること)して将軍職に就きました。

そのため、自分の権力基盤が弱いことを気にしており、高圧的な政治を行うことで自らの力を強めようとしました。

影響力のある親戚や家臣をつぎつぎ殺害しましたが、逆に恨まれて有力家臣の赤松氏に暗殺されてしまします。

長男の足利義勝(あしかがよしかつ)が9歳で将軍職を継ぎますが急死。ついでその弟の義政が8代将軍に就きますが、幼少のため政治の主導権を握ることができず、乳母の今参局(いままいりのつぼね)や近臣の烏丸氏、伊勢氏などが勝手に勢力争いを始めます。

義政は成人してから権力回復を試みますが、優柔不断な性格で、勢いのある者につく傾向があったため、余計に家臣になめられるようになりました。義政は次第に政治への自信を失い、趣味の芸術活動や飲酒に逃げるようになります。

また、室町幕府自体が、始まった当初から有力大名が支える形式をとっていたため将軍の権力が弱く、重臣たちの影響を強く受けていました。

さらに、その重臣たちも、領国の有力な家来衆に支えられて力を保っているのが実情でした。

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応仁の乱が起こるまでの勢力関係

応仁の乱が起こる以前の有力者は、管領(かんれい)という要職に就ける家柄の畠山・細川・斯波の各氏、守護大名として急速に勢力を大きくしていた山名・大内氏、親戚であるにも拘らず、幕府成立直後から将軍家と仲が悪かった関東足利氏、将軍・義政の執事だった伊勢氏、義政の妻である日野富子(ひの とみこ)と、その兄である日野勝光(ひの かつみつ)らがいました。

この中でも、特に細川氏と山名氏は大きな影響力を持っており、彼らの対立と他大名の内部分裂、将軍家の後継ぎ問題や、細川氏と大内氏の貿易利権争いなどが複雑に絡んで応仁の乱のきっかけとなります。

畠山氏の後継ぎ争いと細川氏・山名氏

幕府管領の要職にあった畠山持国(はたけやま もちくに)は、実子がいなかったため弟の持富(もちとみ)を養子にしていましたが、1437年に実子(畠山義就(はたけやまよしなり/よしひろ))が生まれたため、将軍・義政の許可を得て、義就を後継者としました。

しかし、畠山家の重臣の一部が納得せず、持富の子・弥三郎(やさぶろう)を擁立すべきと言いますが、持国は弥三郎派を粛清しました。このため、弥三郎は有力大名の山名宗全のもとへ逃げ込みました。

1454年、宗全や、細川氏当主の勝元らは、この内紛に介入して持国の屋敷を襲撃。持国は力づくで隠居させられ、義就は京都を追われました。

将軍・義政は宗全や勝元の影響力を無視できず、やむを得ず弥三郎を後継者として追認しますが、内心では義就を支持していたため、両成敗の建前で勝元側の家来を処罰させます。しかし宗全がこれに激しく反発。怒った義政は宗全討伐を命じますが、最終的に宗全が隠居することで決着しました。

義政は宗全や勝元の台頭を苦々しく思っており、ひそかに義就を復帰させて自派に取り込もうとします。それに呼応した畠山義就は、宗全が隠居に伴い京を離れた途端に兵を連れて入京し、不利になった弥三郎は逃走。なんとまた義就が実質的な後継者となります。

1455年、畠山持国が死去。義就が正式に家督を相続して反対派の粛清を行い、さらに細川勝元の領地を攻撃。勝元は弥三郎と連携して対抗しますが、1458年に赦免された宗全が、勝元の影響力を抑えるため、義就派に鞍替えしてしまいます。

当時の政治制度は足利家・諸大名・実力者の連合政権であったため、彼らはそのときどきの血縁関係や力関係を考慮して、誰と仲良くするかを決めていました。

ある大名が急速に勢力を拡大した場合、他の大名が敵側に回ってバランスを取ろうとする動きが多かったのです。

勝元と宗全は縁戚関係にあり、当初その関係は良好でしたが、複雑な情勢の変化の中で、それぞれが自分に有利な動きを考えたため、次第に対立していくのです。

1459年には弥三郎が死去。細川派は義就への対抗を続けるため、弥三郎の弟・政長(まさなが)を擁立します。

このころ義就は領地拡大のため、将軍・義政の意向だと主張して勝手に軍事行動をとり、義政の心象を悪くしました。そのため義政は、新たに政長を畠山家当主とします。

これに反発した義就は、1460年に挙兵して実力行使で領地を守ろうとしますが、幕府から攻撃を受け敗走しました。

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斯波(しば)氏でも後継ぎ争い

一方、関東では1455年に関東足利氏の足利成氏(あしかがしげうじ)が反乱を起こしました。将軍・義政はこれを討つため、有力大名の斯波家当主、斯波義敏(しばよしとし)に出兵を命じます。しかし義敏は自身の家臣と紛争中だったため、関東に行きませんでした。

怒った義政は斯波家の当主を、将軍家と仲が良い渋川氏の子・斯波義廉(しばよしかど)に変更します。これは将軍家との関係性と、斯波家が持つ兵力の両方を使おうとした特殊な政策でした。しかし肝心の渋川氏が関東の武将たちと仲良くできず失脚し、政策は失敗します。

この頃、幕府では義政お気に入りの家来・伊勢貞親(いせさだちか)が権力向上や賄賂受取りを狙って各地の大名家のお家騒動に介入しますが、そのときどきの利害に影響されて方針に一貫性が無かったため、各家に不満の火種を残す結果となります。

貞親は斯波家の問題にも介入。何とかして関東に軍を送りたい将軍・義政に勧めて義敏の復帰を試み、1466年、ついに斯波氏当主を義敏に戻しました。

これを不服とした義廉は、山名宗全・畠山義就と連携して復帰工作を始めます。

宗全、また勝元までもが度重なる貞親の専横に不満を持っていたため、同年に彼らは協力して貞親らを幕府から追放しました(文正の政変)。

足利義視と義尚

将軍・義政は政治への興味が薄く、さらに29歳になっても自身に男子が生まれていなかったため、将軍職を弟で僧籍に入っていた義視(よしみ)(当時は義尋)に譲ろうとしますが、義視は断り続けました。

しかし、義政が「今後自分の子が生まれても後継者にはしない」という文書まで出したため、義視は1464年に還俗して細川勝元と連携します。

しかし、1465年義政と正室・日野富子(ひのとみこ)の間に長男・義尚(よしひさ)が誕生します。富子は義尚を将軍にするため、山名宗全の援助を受けようとしました。

このため、義視派の勝元と、義尚派の宗全の対立は決定的となり、衝突は避けられない情勢となります。

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合戦開始

1466年、畠山義就は当主の座を実力で奪うため、大軍を率いて入京しました。将軍・義政は軍事力に気圧されて、義就と面会してあっさり畠山氏を当主と認め、逆に政長に退去を要求しました。政長は反発して役職を辞め、後任には義就・宗全派の斯波義廉が就きました。

これに対して、勝元は将軍邸を占拠して、力づくで義政に義就追討令を出させようとします。しかし宗全側もまた連携する各地の大名の軍を集め、先に将軍邸を囲んでしまい、将軍・義政に細川勝元・畠山政長らの追放を要求します。宗全への力の一極集中を恐れた義政は勝元の追放を認めず、政長への攻撃だけ認めました。

義政は畠山氏の私闘への関わりを禁じますが、宗全や斯波義廉らはこれを無視し、義就に加勢しました。

そして1467年、ついに義就方から政長を攻撃し、戦端の火蓋が切られます。政長は敗走しました。

この合戦の後、細川勝元が斯波義敏・畠山政長の兵ら16万を京へ集結させ、対する山名宗全も斯波義廉・畠山義就兵ら11万を集めて陣を置きました。細川方の「東軍」には将軍・義政と足利義視がつき、山名方の「西軍」には日野富子がつきました。

戦線の拡大

同じく1467年(文正→応仁に改元)、今度は東軍から西軍を攻撃し、大乱が始まりました。

はじめは京都一帯が戦場となり、徐々に戦闘が全国に広がりました。奥州・関東・九州でも地方豪族が勝手に戦を始めて混乱状態に陥りました。

将軍・義政はいったん中立の立場を取り、両軍に和睦を命じますが、東軍が当時の天皇・法皇を保護して官軍として動いたため東軍を追認し、畠山政長を赦免しました。西軍は不利な情勢となります。

しかし、周防国の有力大名で、細川氏と貿易利権をめぐって対立していた大内政弘が西軍につき、1万の大軍を率いて入京したため、形勢は逆転。京都周辺で激戦が繰り返されて徐々に東軍が劣勢となり、足利義視は伊勢に逃亡します。

義視は1468年に東軍に復帰しますが、将軍・義政が東軍・斯波義敏派の伊勢貞親を幕政に復帰させました。義視は貞親と仲が悪かったため再度逃走し、なんと西軍と連携します。西軍は義視を新将軍として扱い、独自に幕府としての政務を始めました。

富子は、西軍が義視を受け入れたことで義尚の危機を感じ、東軍へ乗り換えます。これで敵味方の主役が入れ替わってしまいました。

将軍・義政は、義視との約束を破るのをためらっており、どっちつかずの態度を取っていましたが、伊勢貞親復帰の際に、義視が強く反対して義政と仲が悪くなり、反官軍側に寝返って独自に政務を始めたことや、東軍が天皇・法皇を抱えていて比較的有利だったこと、さらに細川勝元から再三にわたり助力要請が来たこともあって、最終的に実子への承継に傾き、東軍側の姿勢を明確にしました。

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長引く戦と和睦交渉

大内政弘の圧倒的な兵力によって京周辺が西軍に抑えられたため、戦場は摂津・丹波に移り、両軍の戦いはしばらく膠着状態となります。長引く戦乱で京都の町は焼け野原となり、荒れ果てていきます。

各地の守護大名が京で戦っている間に、その領国で内紛が頻発したため、彼らは中央の情勢に集中出来なくなりました。また、彼らが利用したかったはずの幕府権力自体が著しく衰えたため、戦をしても得るものは無くなりました。そのため、次第に両軍の士気は衰えていきます。

このため、1472年、勝元と宗全の間で和議の話し合いが行われますが、以前に山名氏と領地争いをしていた赤松氏が反対したため、頓挫します。

それでも戦を止めたかった勝元と宗全は、それぞれ実子・政元と孫・政豊に家督を譲って剃髪・隠居したあと、まもなく相次いで死去しました。

1474年、細川政元と山名政豊は個人的に和睦しますが、細川氏は利権の奪い合いが続く大内氏との戦闘を続け、畠山氏ら諸氏も自身の都合から寝返りや小競り合いを続けました。

義政の隠居と乱の終息

将軍・義政の正室である日野富子は、日本史上稀に見る悪女とされています。金儲けが大好きで、戦乱の最中でも庶民の暮らしを顧みず、関所を増やして税金を取ったり、東軍・西軍両方から賄賂を受け取っていました。

幕府では、資金工作が得意な富子の影響力が拡大し、義政の実権は失われていきました。ますます政治に嫌気がさした義政は、1474年に義尚に将軍職を譲り隠居してしまいます。

1476年、戦に疲れた足利義視が義政に恭順の意を示し、義政が義視の罪を問わないと答えたため、和睦の雰囲気が強まります。

1477年、大内政弘は、日野富子に賄賂を贈る代わりに将軍・義尚の名で領国の守護職を保証されたことに納得して京から撤収。主力を失った西軍は事実上解散して京都での戦闘は収束しました。

次いで幕府によって乱終息の宴が催され、11年に及ぶ大乱はようやく終わりました。

この戦乱では、のべ数十万人もの兵士が都に集結し、11年にも渡って惰性的に戦闘を続けました。しかし勝敗すらつかないまま終わり、正式に罰せられる大名もいないという、不可思議な結果となりました。

当時の人々も理解に苦しんだようで、高僧であった尋尊(じんそん)は、自身の日記に「どう考えても大乱が起こった原因が分からない」と記しています。

大乱のその後

畠山政長と義就は、大乱が終わった後も勝手に戦を続けましたが、地元の国人領主が結束して山城国一揆を起こし、両派は国外に追放されました。

さらに、加賀国では東軍に加わった富樫氏が、一向一揆に攻め込まれて自害。以降約100年間、一揆勢が加賀一国を支配しました。

地方では国人領主が平気で守護大名に逆らい始め、収拾がつかなくなります。以降約100年間、戦国時代に入るのです。

応仁の乱まとめ

長きにわたった戦乱で、京都の町全域が焼け野原となり、多くの公家が地方に逃げ、幕府の影響力が極めて弱くなるなど、様々な悪影響が生まれました。

幕府の体制の脆さと、将軍・義政の弱気などが原因となった応仁の乱。義政は芸術家としては一流でしたが、政治家としては三流だったと評価されています。

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