大坂の陣~真田幸村・豊臣秀頼の最後、生存説

大坂の陣

1615年、大阪の地で日本を揺るがす大きな戦いがありました。かつて天下を統一し、強大な力で支配していた豊臣秀吉の嫡男、秀頼と関ケ原の戦いに勝利し一気にのし上がった徳川家康が起こした『大阪の陣』です。

戦国時代の終わりを告げる戦は、2016年大河ドラマ『真田丸』でドラマチックに描かれたことにより、多くの人の興味を引きました。この大坂の陣について調べると、必ずと言って良いほど「真田幸村生存説」と「豊臣秀頼生存説」(最後)に行きつきます。その名の通り、合戦で死んだと言われているけど実は生きてました!という話なのですが、今回はこれが一体どんなものなのかをご紹介していきます。

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1)大坂の陣とは?

大坂の陣は1614年11月から1615年5月にかけて、大阪城を中心に繰り広げられた大戦です。

関ケ原の戦い以降、どんどんと力を失った豊臣と江戸幕府を開いて権力を手に入れた徳川家康の関係が「方広寺鐘銘事件」をきっかけに、修復不可能なくらい悪化して全国の諸大名を巻き込んで大阪城で戦いました。

大坂の陣は徳川軍20万、豊臣軍10万の大合戦でしたが、豊臣に味方した武将たちのほとんどは、関ケ原の戦いで敗れて苦い思いをした者たちでした。お家を取り潰された大名などが多く、この戦に勝ってお家再興を!と夢見て参戦したようです。

また、昔に比べて戦が少なくなったので仕事が無くなってしまった武士が金に目が眩んで参戦したりもしました。そんな統率の取れない軍団をまとめていたのが、真田幸村(信繁)でした。

大坂の陣は冬と夏、どちらも大小様々な野戦が展開しました。冬の陣は、真田幸村が大阪城の外に構えた「真田丸」という出城をフル活用し、少数で大軍を叩くと言う戦法で徳川を圧倒しました。ですが、連日鳴り響く大砲の音に怯えた淀君が和平交渉を持ちかけて、停戦する事になりました。

いくつかの取り決めをして戦争を中断しましたが、互いにその取り決めを無視するようなことがあり、4月に夏の陣が始まりました。

この時、大阪城の外堀も内堀も徳川軍に埋められてしまっており、城は丸裸。どこからでも攻められるような状態になっており、真田の知略と又兵衛らの武をもってしても苦しい戦が展開されました。

そして後藤又兵衛、木村重成など次々に戦死していき、真田幸村が大将首を狙って決死の特攻をします。この猛攻は本陣の目の前までやってくるほど勢いがあるもので、家康を本気で怖がらせた恐ろしいものでした。やがて真田も戦死し、秀頼と淀君は大阪城で毛利勝永の介錯で自害。

この戦いをもって、戦国の世は終わりを告げました。

2)真田幸村(信繁)の最期

大坂の陣で奇計で徳川軍を翻弄し、最期は決死の特攻で家康を震え上がらせ「日の本一の兵(つわもの)」と言わしめた真田幸村は、この本陣突撃の後に精根尽き果てて、家臣たちと田んぼのあぜ道でぐったり腰を下ろして休んでいるところを、足軽頭の西尾久作に討たれました。

実は真田幸村の最期は、いまだにはっきりとしていません。通説になっているのは、西尾が討ち取る際に真田幸村が
「もう戦うつもりはない、首を持って行きなさい。私の家臣にも私と同じ兜を被せて裏に朱銘もしてあるが、私の兜にだけは六文銭が刻まれている。どれが真田の首だと問われたら、それを証明してあなたの手柄にしなさい」
と告げたというものです。

西尾久作が真田幸村を討ち取った際の話は、史料によって異なり、西尾が真田幸村と一戦交えて討ち取ったというものまで存在します。

様々な史料で真田の最期が語られていますが、なんと真田幸村には生存説が存在するのです。

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3)真田幸村生存説と豊臣秀頼生存説

大坂夏の陣が終わった後、京や大阪ではあるわらべ唄が流行しました。

花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ

このわらべ唄によると、「真田幸村は秀頼を連れて薩摩(鹿児島)へ逃げた」ということになります。この生存説は後世に出来上がったものというわけではなく、大坂の陣が終わったあとから庶民の間で噂されていたことのようです。

当時のイギリス商館館長リチャード・コックスは日記の中で「豊臣秀頼は重臣5、6名を連れて、薩摩にいるだろうと聞いている」と書いており、かなりメジャーな噂話だったようです。そのせいもあり、他の歴史上の人物の生存説(源義経生存説、明智光秀生存説など)よりも具体的で、数は少ないですが史料も残されています。

では、二人の生存説の裏付けになる話をいくつか紹介していきましょう。

①田幸村にはたくさんの影武者がいた!

大坂の陣で真田幸村はたくさんの奇計を披露しますが、その基本は「真田幸村を名乗る人物が複数現れて翻弄する」という、影武者を上手に使った策でした。

西尾に討ち取られた時の話でも、影武者を用意していますね。影武者を多用していましたので、大坂の陣の終盤に討ち取られた首は、本人のものではなかったという説があります。

ある史料には、西尾が提出した首は、真田家家臣の望月宇右衛門のものだったけど、西尾久作の主が「これは幸村の首だ!」と主張するから否定できなかった……なんて書かれています。

②丸地区に残る幸村の墓、六文銭まで刻まれてる?

大阪から船で逃げ出し、現在の鹿児島県雪丸地区に落ちのびたとされていますが、その土地には今もなお真田幸村にまつわる話が残っています。

この土地に来てから、真田幸村は「芦屋左衛門」と名乗り、子供も作って生涯を終えました。その墓には真田家の家紋である六文銭が刻まれており、子孫は真田から名を取り「真江田」と姓を名乗り今日に至るのだとか。

③児島県谷山に伝わる秀頼の伝承

豊臣秀頼生存説の根拠の一つは、鹿児島県谷山地区に伝わる伝承です。

秀頼はよく城下町で酒を飲んでは暴れており、がたいが良かったこともあり誰も止められずに困っていました。しかも彼は、生まれてこのかたお金を払って飲食するということをしたことがありません。なので、しょっちゅう無銭飲食をしていたとか……

今でも谷山地区では無銭飲食のことを「谷山犬のくれ逃げ」と言います。

『薩摩風土記』などにも記載があり、秀頼生存説の裏付けとされる逸話の一つです。

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4)秀頼生存説はありえない?

両名の生存説の裏付けになる話を3点紹介してきましたが、近年秀頼生存説は否定されつつあります。

これまで秀頼生存説は「秀頼の遺体ははっきりしたものは発見されていない」という根拠が強力だったため、長い間信じられてきました。しかし、1980年(昭和55年)に大阪追手門学院の校舎建て替え工事のためにおこなった発掘調査で、成人男性のものと思われる頭蓋骨が発見されました。

この頭蓋骨は、豊臣時代の大阪城で見ると二の丸付近にあったとされています。大阪城は先述した通りの激戦区だったため、死体の一つや二つ転がっててもおかしくありませんが、この頭蓋骨だけは一緒に高級な焼き物の皿や浄めに使ったとおぼしき貝殻、大型の馬も埋められており、人為的な穴の掘り方がされていました。

この発掘された頭蓋骨の特徴は、成人男性(20代前半)、非常に体格が良く、栄養状態はすこぶる良好、子供の頃から歯の手入れができる環境にあった……というものです。
秀頼は、この頭蓋骨の特徴に当てはまります。

大坂の陣があった当時23歳、体格は180cmはあったと言われており、当時の日本にはあまりいない大型の馬を愛馬にしていました。

このような鑑定結果から、発見された頭蓋骨は淀君とともに大阪城で自害した秀頼のものと考えられており、生存説は根底から覆されることとなります。

まとめ

真田幸村と豊臣秀頼の生存説について考えてきましたが、いかがでしたか?

歴史上の偉大な人物は、どの時代であっても生存説が付き物です。このような生存説は、一部のオカルト、都市伝説マニアの間でささやかれるトンデモ学説だとネタにされがちですが、中には信憑性が高いものも存在します。

しかしこういった生存説に共通しているのは、「生き延びていたらいいな」という人々の願望でしょう。それが顕著に表れているのが、幸村・秀頼生存説だと思います。

なお、大坂の陣で活躍した武将で後藤又兵衛がいますが、伊予(現在の愛媛県)に逃亡したという生存説があります。愛媛以外にも福岡や大分、栃木など全国的に後藤又兵衛が落ちのびたという伝承が残されており、彼がいかに有名な武将だったかを物語っています。

一方、秀頼と幸村の伝承は、鹿児島以外にも宮城、秋田、京都、長野などに残っています。

「大坂の陣・活躍武将生存説ツアー」なんてものをやってみても面白いかもしれませんね。

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