大坂城の歴史 現在の大阪城は豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康 誰が築城?

大坂城を取り巻く歴史 今の大坂城ができるまでの過去

【大坂城】と言えば誰もが思い浮かべるのが豊臣秀吉ではないでしょうか。

織田信長の安土城をモデルとして大坂城を築き上げたのが豊臣秀吉なので当然といえば当然なのですが実は今から400年も前に「大坂夏の陣」で落城し、秀吉が築いた城は今は全て土の下に埋もれてしまっているのをご存知でしょうか。

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現在、見られる大阪城の石垣や堀は実は徳川時代に築かれたもので、秀吉が築いた天守は壊され埋められ土台とされてしまいました。

大阪の象徴とも言える絢爛豪華な大阪城を残すことで豊臣家の威光まで残ってしまう事を嫌った徳川家康が、豊臣時代の天守を徹底的に破壊したと言われています。
さらに天守閣にいたってはその徳川時代のものですらなく、昭和に入ってからコンクリートで建てられた3代目のお城なのです。

現在の城郭は秀吉時代と比べて敷地面積が1/3程度に減っていますが、天守閣は今より江戸時代の方が大きかったそうです。

豊臣秀吉が築いた初代大坂城は、徳川家康が築いた2代目大坂城の下に埋められ、その天守も後に落雷によって焼失。
昭和になってから復興されコンクリートで再築された3代目が、現在私たちが目にしている大阪城なのです。

それでも「大阪城」といえば「豊臣秀吉」というイメージが今もなお強く残っています。

大阪の象徴として、秀吉の城として、現在も親しまれている大阪城。

そんな大阪のランドマークである大阪城と豊臣秀吉について語ってみたいと思います。

秀吉が大阪城を今の場所に築こうと思ったのには理由があります。何もないところにポンと築城した訳ではありません。
乱世を終わらせるという織田信長の夢に共感し、信長に仕えて日本統一を目指し各地で転戦を繰り返していた秀吉たち織田軍。

破竹の勢いで全国統一に向かって邁進していた信長が攻略するのに10年の歳月をかけた強敵がいます。

それが本願寺顕如(けんにょ)という僧侶なのです。

顕如は浄土真宗の総本山のトップであり、一向宗と呼ばれた石山本願寺の伽藍は城郭にも匹敵する規模を誇り、戦国大名と並ぶほどの力を持っていました。

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織田信長の天下布武という、力で他をねじ伏せるような強引なやり方に反発する勢力がどんどん増えてゆく中、本願寺顕如が率いる一向宗も武器を持ち僧兵として信長に抗うことを決めます。

織田軍が石山本願寺に攻めかかるも、顕如ら一向宗が立てこもる堅固な城のような寺はびくともせず、落とすのに10年もの歳月を費やしました。

しかも最後まで攻略することは出来ないまま天皇の仲介による和睦という形で両者の戦いは終わったのです。

しかし、信長への不満が解消できない本願寺の顕如ら一向宗は再び反旗を翻し奮闘しますが、兵糧攻めにて降伏させられ合戦は終結します。

この本願寺の抵抗によって織田信長の天下統一は大幅に遅れたと言われています。

信長がようやくこの難攻不落の地を手に入れ、天下統一の新たな拠点として自らの城を築くことに着手しますが完成を目前にして本能寺の変が起こります。

そのため工事は一時中断となりますが、この地に目をつけていた豊臣秀吉により翌年工事が再開されました。

城は軍師である黒田官兵衛が築城奉行として縄張りを担当し、秀吉好みの華麗で優美な装飾を施した天守閣を築き上げました。

難攻不落の本願寺があった地に堅固な城を築いたという理由もありますが、やはり大阪という場所も重要だったと思われます。

まず第一に天皇が住む都である京都に近いこと、淀川が京都までの交通路の役割を果たしていたこと、そして港があり物流の拠点となっていたこと、さらに多くの商人により商業都市として商売や貿易の中心となっていたこと、などが挙げられます。

信長の安土城をも凌駕する五重六層、地下二階の建築は圧巻で、外は黒漆塗りの板張りで瓦を含め金箔が惜しげもなく使われていたと伝わっています。

見るものを圧倒する豪壮で雄大な大阪城は、豊臣政権の強さを他の大名に見せつける権威の象徴でもありました。

秀吉は大阪城を訪れる大名に対して自ら自慢げに場内を案内し、その豪華さに驚く大名の顔を見て楽しんだそうです。

贅の限りを尽くし自分の威光を見せつけるかのような豪華な城を築いた秀吉の満足そうな顔が目に浮かびます。

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天守完成後も断続的に城造りは行われ、築城開始から15年の歳月をかけて徐々に難攻不落の巨城が築き上げられました。

そのため天守は完成していましたが城全体の完成は秀吉が死んだ翌年となり、完成後の姿を秀吉は見ていないということになります。

秀吉は京都の聚楽第を拠点とし、晩年は伏見城で過ごしており、大坂城にはほとんどいなかったとも言われています。

豊臣秀吉が死んだ後の1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発。

言わずと知れた日本史最大の合戦であり、日本で最も有名な戦いと言っても過言ではないでしょう。

秀吉の遺児であり豊臣家の当主となった若き秀頼を天下人にするべく立ち上がった石田三成と、豊臣家の権威を失墜させ我こそが次の天下人にならんと野望に燃える徳川家康との大喧嘩。

何ヶ月もかかると思われた史上最大の合戦はなんとたった1日で終わり、西軍は敗れ石田三成は徳川方に捕まり処刑。

徳川家康により勝利した東軍への恩賞という形で所領が分配された結果、豊臣家は220万石の大大名から65万石の一大名に転落させられてしまいます。

それでも豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としており、壮大な大阪城がそびえ立っている限りは豊臣家の威光はまだまだ健在だと誰もが思ったようです。

豊臣方は秀頼が天下人となり近い将来にまた豊臣家の時代が来ると固く信じていたと思われます。

しかし、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣が勃発。

高齢となった家康は自分が亡き後、再び豊臣家が力を巻き返し天下に号令をかけるのではとの思いから、強引に合戦をしかけ自分が存命の内に豊臣を滅ぼそうと決めたのです。

力攻めでは絶対に落ちない強固な大阪城を、家康は大軍を持って包囲し昼夜を通して大砲を城に撃ちかけるなど心理的に追い詰めます。

城内の豊臣方が疲労困憊し戦意喪失したところで和睦を持ちかけるという作戦は見事に成功します。

余談ですが、この大阪城の攻略方法は城が完成した時のお披露目の際に豊臣秀吉が自ら語ったというエピソードが残っています。

徳川家康、前田利家、蒲生氏郷の3人を、大阪城内を自慢しながら案内した後に部屋に戻り、雑談の最中に大阪城を攻め落とす方法を尋ねたと言うのです。

3人が思案して沈黙していると秀吉は自慢げに大阪城攻略について語ったそうです。

利家と氏郷は大そう驚いた表情を浮かべて秀吉の戦略に関心したそうですが、家康のみ関心が無いという態度で秀吉に警戒されないようにニコニコ笑っていたそうです。

真相は定かではありませんが、この秀吉の攻略方法を覚えていて実際に実行したと思うと家康のしたたかさに驚かされます。

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大阪冬の陣での和睦の条件として徳川が豊臣に提示したのは大阪城の広大な堀を埋め、三の丸と二の丸を破却するというものでした。

その条件を飲むしかなかった大阪城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまいます。

これに黙っていられなかった秀頼は大阪城を再び元の姿に戻そうと堀の再建を試みます。

それは豊臣を滅ぼすという悲願を抱く家康の思うつぼでした。敵意があり講和条件を破棄したとみなされ、冬の陣から僅か4か月後の1615年(慶長20年)に大坂夏の陣が勃発。

豊臣方に味方していた真田幸村らの奮戦も虚しく、裸城となった大坂城は脆くも落城し豊臣氏はついに滅亡しました。

大坂城が炎上して焼失すると、徳川幕府は豊臣家は消滅し、次の時代の覇者は徳川家に移った事を見せつける必要がありました。

冒頭でもお伝えした秀吉が建てた大坂城の残骸を完全に地中に埋め、その上に更に大きな徳川の大坂城を建てることでした。

それを見た大坂の民衆は、豊臣時代の終焉と時代の移り変わりを悟ったといいます。

しかし、そんな徳川が築いた大阪城も今は焼失し、現在見ることが出来る昭和に再建された大坂城の外観は「大坂夏の陣図屏風」を参考にして豊臣秀吉が建てた天守閣を模しており、徳川時代の石垣の上に豊臣時代の天守閣がそびえ立つという何とも皮肉な姿になっていると言えるのではないでしょうか。

現在、発掘調査によって土中に埋められた秀吉の大坂城の石垣などが発見されており、それを公開する計画もされているそうです。

地中から出て来た石垣を見ることで秀吉や秀頼の想い、家康の思惑などが頭に浮かんでくるのではないでしょうか。

そんなことを思いながら大阪城を眺めてみると、今までと全く違う姿として見えてくるかもしれません。

機会があればぜひ、大阪城に立ち、足元を見つめながら地中に眠る物語に思いをはせてみてください。

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