織田信長ゆかりの地~京都歴史巡り、歴史観光
京都歴史散歩~織田信長ゆかりの地
京都を巡るにはいろいろな楽しみ方があります。
歴史や文化、神社仏閣や史跡、建築や食、紅葉や桜など、テーマをしぼって巡るのも楽しいものです。
近年はパワースポット巡りや御朱印巡りなども人気を集めています。
そんな中、おすすめしたい京都巡りが歴史散策です。
古くから日本の都として長い歴史を持ち、地震などの災害も少ないため貴重な史跡や建造物が京都には多く残されています。
最近は歴女などという言葉も耳にするほど若い女性の中でも歴史人気は高まっており、京都は歴史巡りをするのに最適の地だと思います。
特に人気がある幕末や戦国をはじめ室町や平安など時代別にテーマをしぼり、その中から興味のある時代や人物を決めて散策するのもまた楽しいです。
より深くその人物を知ることが出来ますし、自分がいま立っているこの場所にその人も立っていたのか、などと思いを馳せることでより一層イメージが膨らみ鳥肌が立つような感覚に陥ります。
そんな体験を少しでも歴史に興味がある方に味わって欲しいとの願いから、今回1人の人物を取り上げてみました。
織田信長です。
歴史に全く興味が無い人でも名前を知らない人はいないのではないでしょうか。
織田信長と言えば日本の歴史上、最も有名な人物の1人と言えるでしょう。
今や歴史上の人物という枠を超え、ゲームにテレビに映画など、その人気と知名度は不動と言えるでしょう。
ゲームなどの影響から 「野望を抱き天下統一を果たした人」というイメージが強いと思われます。
しかし信長は天下を統一できてはいません。夢半ばにして命を奪われています。
波瀾にみちた激動の生涯を自ら本能寺にて絶たなければならなかった戦国時代の風雲児、織田信長。
天下統一を目前にして明智光秀の謀反により、自ら寺に火を放ち自害したと言われています。
戦国時代が舞台のドラマや映画であれば必ずと言って良いほど登場する大事件。
この天正10年6月2日に起きた「本能寺の変」は日本の歴史上、最も有名な出来事のひとつと言えるでしょう。
近年は芸人が踊りながら歌うネタにもなり、一時は小さな子供まで口ずさんでいたのも記憶に新しいです。
これほど有名な大事件が起こった場所が京都に今もある本能寺なのですが、実は現在の本能寺は信長が討たれた当時とは場所が違うのをご存知でしょうか。
しかも現在の本能寺よりも規模も大きく堀や壁に囲まれた城塞のような堅固な寺で、簡単に落ちるものではなかったそうです。
では、信長が討たれた当時の本能寺はどこにあったのでしょうか。
そんな疑問にお答えしながら、織田信長が京都に数多く残した足跡を紹介してみたいと思います。
織田信長の視点から今も残る京都の史跡を見ることで多くの新しい発見をすることでしょう。
特に歴史や信長が好きな方なら京都散策がより楽しくなること間違いなしです。
余談ですが京都の歴史めぐりにはレンタル自転車をおすすめします。
電車は乗り換えが多く意外と不便だったりしますし、バスも便 は多くて便利ではありますが時間がかかります。
なるべくなら徒歩や自転車で京都の風を感じながら戦国時代に想いを馳せるのがベストかと思われます。
織田信長に関連する京都の史跡の紹介の前に、まずは簡単に織田信長の生い立ちをおさらいしましょう。
最初の拠点は尾張国、今の愛知県です。そこから天下統一を目指し京都に拠点を移動させてきます。
尾張から京都へ舞台を移すまでを、まずは駆け足で紹介させて頂きます。
織田信長は1534年に尾張国、今の愛知県で古渡城(ふるわたりじょう)の城主だった織田信秀の嫡男として生まれます。
そしてなんと2歳で那古野城(なごやじょう)の城主になっています。今の名古屋城内に「那古野城跡」の石碑が確認できます。
幼少期から青年期まで「尾張の大うつけ」と呼ばれ悪童として名を馳せますが、先見の明 を持ち抜群の閃きと行動力を兼ね備えたカリスマ信長は見る見る頭角を現します。
隣国の戦国大名、斎藤道三の娘と結婚し勢力を拡大しますが、実父の死により織田家の家督を継ぎ、尾張国を統一し国主となります。
1560年に起きた有名な合戦「桶狭間の戦い」で10倍とも20倍とも言われる今川義元の大軍勢を僅かな兵力で奇襲をかけ見事に勝利します。
この戦の勝利により尾張に織田信長ありと全国の大名たちに名前が知れ渡ったと言われています。
勢いに乗じて勢力を広げ中部、近畿を中心とした多くの国を武力によって平定し、ついに足利将軍家の血筋である義昭を奉じて上洛を果たし京都に活躍の場を移すことになります。
このあたりから本拠地である岐阜と京都を行き来するようになり、京都に信長の史跡が多く残ることになります。
京都に滞在するにあたり宿泊施設が必要となります。しかも信長だけではなく近習の者や護衛の兵など大勢で宿泊できる宿です。
当時はそこまで大きな宿はありませんから、大きな寺を宿所にすることが多かったようです。
そして信長が好んで宿泊していた寺が自らが建設させた「本能寺」であり、「妙覚寺」や「相国寺」などだったそうです。
もしかすると中には「本能寺の変って何?」という方もいるかもしれません。
名前は聞いたことあるけど、結局は何が起きたの?と詳しくは知らないという方もいると思いますので、簡単に「本能寺の変」を解説しておきます。
「本能寺の変」とは、織田信長の家臣である明智光秀が主君である信長が宿泊していた本能寺を不意に襲い自害に追いやった謀反のことです。
天正10年6月2日中国地方統一に乗り出し現在の岡山県、備中高松城で毛利氏と戦っていた秀吉を救援するために動いていた信長は京都の本能寺に宿泊します。
天下統一を目前にして警備がわずか100人あまりという警戒を怠ったような状態でした。
京都周辺はすでに敵もおらず天下に王手をかけた現状に油断が生じたのかもしれません。
そこへ同じく秀吉救援に向かうはずの明智光秀が中国地方とは逆方向である京都に全軍を進め、信長が宿泊する本能寺を襲撃しました。
明智軍の数は明らかにはなっていませんが、おそらく1万3000人がいたと言われています。
寝所で休む信長のもとへ慌てた森蘭丸が駆けつけ明智の謀反を伝えると「是非もなし」と信長が言って弓を持ち応戦する場面は何度となくメディアに登場します。
散々奮闘した後、信長が好んだ「人間50年~」の節で有名な「敦盛」を舞い、焼け崩れる炎の中で自害する信長の姿。
多くの方があらゆるドラマや映画などで目にしたと思われる儚くも美しい名シーンでしょう。これが「本能寺の変」です。
しかしなぜ家臣である光秀が主君である信長を裏切ったのか?個人的な恨みや野望、朝廷や神に対する冒涜が許せなかった、実は黒幕がいるなど謀反の理由は諸説ありますが真意は未だに分かっておりません。
裏切り者という汚名を後世に残すことになるにも関わらず謀反という手段に出るしかなかった光秀の真意はいかに。
そんな事も踏まえたうえで本能寺へ行ってみると多くの物が見え、多くの感情が湧き上がってくるかもしれません。
現在の本能寺には信長公の最期を一緒に過ごしたゆかりの品々が数多く展示してある宝物館があります。
境内には織田信長・信忠父子と森蘭丸ら家臣たちの供養塔もあります。
本能寺へは地下鉄東西線で京都市役所前駅で降り、歩いて数分でたどり着きます。
賑やかな商店街の中に突然現れるので初めて行った時は面食らいました。ぜひ訪れてみて下さい。
そして信長が討たれた実際の場所、戦国時代当時の本能寺にも行くことが出来ます。
阪急烏丸駅で降りて四条通りを大宮駅方面に歩いて数分の場所に「旧本能寺跡」はあります。
何気ない細い道路の一角に石碑だけがひっそりと立っています。
まさにここが信長の夢が潰えたその場所だと思うと感慨深いです。
ぐるりと歩きながら散策をすると跡地には老人ホームや高校が建ち、その敷地の大きさに驚かされます。
本能寺を取り囲む明智軍と弓を取り奮闘する信長の姿を妄想しながら想いにふけるというのも一興です。
信長が討たれたことで有名になった本能寺ですが、その他にも信長お気に入りの宿がいくつかあり、妙覚寺と相国寺にもよく宿泊していたそうです。
もし信長が天正10年6月2日に本能寺ではなく妙覚寺や相国寺に宿泊していたら「妙覚寺の変」や「相国寺の変」となっていたかもしれませんね。
桜や紅葉の名所としても有名な「妙覚寺」へは地下鉄烏丸線の鞍馬口駅から徒歩3分で行けます。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺でもある「相国寺」へは地下鉄烏丸線の今出川駅から徒歩5 分で行けます。
「旧本能寺跡」から歩いてすぐの場所に「南蛮寺跡」という史跡もあります。
これも織田信長ゆかりの地なのでぜひとも併せて見ておきたいスポットです。
イエズス会宣教師が信長の庇護を得て立てた南蛮の教会があった場所で、京での布教活動や南蛮文化普及の中心となり、1578年には織田信長父子が見物したと伝わっています。
今はビルの入り口の片隅にひっそりと「南蛮寺跡」と書いてある石碑が建っているのみ。
解説板には、秀吉公によって弾圧され破壊された、と書いてあります。
本能寺の変後に信長に代わり実権を握った秀吉は、キリスト教弾圧に転じ宣教師追放令を発し、この南蛮寺も姿を消したとのことです。
「旧本能寺跡」から北へしばらく歩くとほどなく 二条城が雄大な姿を現します。
京都の一大観光名所となっている「二条城」ですが現在、目にする事ができる二条城は徳川家康が築いたものです。
織田信長が築いた別の二条城があったことはご存知でしょうか。本能寺と同様に当時とは違う場所にありました。
室町幕府の最後の将軍、足利義昭のために信長が建てた二条城は二重の堀や三重の天主を備え四方に石垣が高く積まれ、金銀を散りばめた豪華な内装で、庭には泉や築山があった立派な城郭だったそうです。
足利義昭の後には親王を迎え二条御所として使われていましたが室町幕府の滅亡と共に廃城となりました。
今は平安女学院が建つその場所の片隅に「旧二条城跡」という石碑を見る事ができます。
信長の史跡は多く残されているのですが、調べるとお墓が複数あることに気付きます。
供養塔も含めると京都だけで本能寺、阿弥陀寺、大徳寺、建勲神社、妙心寺などが挙げられます。
そんな信長のお墓や供養塔に手を合わせに行きたいという方のために簡単に墓所紹介をさせていただきます。
まずは寺の前に「織田信長公本廟」と書かれた立派な石碑が立つ「阿弥陀寺」です。
本能寺で討たれた信長とその子・信忠の遺骨を玉誉清玉(おうよせいぎょく)という住職が寺に持ち帰り葬ったと言われています。
信長の遺体や遺骨に関しては諸説あり、何も見つかっていないという説が最も多いのですが、阿弥陀寺の説では遺骨があったとされているので本物の信長がそこに眠っているかと思うと夢がありますよね。
1555年に清玉が近江国坂本に創建し、織田信長の帰依を得て京の今出川大宮に移転しました。
豊臣秀吉の寺町造成に伴い現在地に移転された寺内には信長・信忠親子の墓や森蘭丸の墓などもあります。
京都駅から地下鉄烏丸線で国際会館駅まで行き、京都バス19系統の古知谷で下車して徒歩15分で行けます。
次は豊臣秀吉や千利休ゆかりの地でもある「大徳寺」です。
敷地内の塔頭「総見院」は豊臣秀吉が本能寺の変の後に織田信長の追善菩提のために建立したもので、寺の名前は織田信長の戒名である「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」に由来しているそうです。
信長の遺体が発見されなかったため秀吉は信長の木像を2体造り1体を火葬し、もう1体を総見院に安置したと言われています。
今も期間限定ではありますが当時のままの信長の木像を見ることが出来ますのでぜひ見て欲しいです。
墓所には信長の正妻、濃姫や信長の子息、息女など多くの墓が並んでいるのも見所です。
大徳寺へは北大路駅からバスに乗り、バス停「大徳寺前」から徒歩で行くのがおすすめです。
続いて明治に創建された「建勲神社」です。ここは御朱印もかっこいいのでおすすめですよ。
建勲神社は豊臣秀吉による大徳寺においての大法要の後、信長の霊を慰めるべく船岡山に神社を建立しようとするも完成することはありませんでした。
船岡山は建勲神社未完成のまま信長の霊地として大切に保護され、明治になってから天皇により織田信長を御祭神としてようやく創建されました。
建勲神社へは上で紹介した大徳寺から歩いて数分で行くことが出来ます。
最後に織田信長だけでなく武田信玄の供養塔もある「妙心寺」です。
敷地内の塔頭「玉鳳院」は妙心寺発祥の地とされ最も由緒ある別格の位置づけとされています。
武田家とも縁がある妙心寺の住職が武田家の滅亡後、信長に願い出て勝頼らの首級をもらい受け妙心寺玉鳳院で葬儀を行い供養し埋葬したそうです。
そして信長の死後に妙心寺内の大雲院という塔頭が信長父子の供養のために建立されますが江戸の元禄期に跡絶え、聖域とされる現在の玉鳳院に移されたそうです。
こんな経緯から生前は宿敵であった織田信長と武田信玄の供養塔が同じ場所にあるという、ある意味とても貴重なお寺だったりするのです。
妙心寺へは京都駅からJR嵯峨野線に乗り「花園駅」で下車して歩いて数分で行くことが出来ます。
今回は京都めぐりとして歴史の散策、中でも今も根強い人気を誇る織田信長ゆかりの地を紹介させて頂きました。
本能寺をはじめ墓所などをめぐり信長公に手を合わせたいという方におすすめの場所ばかりかと思います。
京都には まだまだたくさんの信長の「聖地」がありますし、たくさんの歴史と史跡が点在しております。
機会がありましたらまた京都での歴史めぐりをご紹介させて頂きたいと思います。