徳川家康の墓 日光東照宮の歴史・由来、見どころご案内

日光東照宮の歴史・由来、見どころ

徳川家康公をお祀りする日光東照宮

日光東照宮は、栃木県日光市にある神社です。

この神社は、江戸幕府を開いた徳川家康公を東照大権現として祀っています。

創建当時は、現状のような華やかさはなく、家康公の遺言で簡素な造りの建物となっていました。

ですが、家康公を尊敬していた孫の三代将軍家光公により、家康公の二十一回忌に合わせて、今のような絢爛豪華な建物として造替されたのでした。

今回は、この壮麗な社殿が証明する将軍家の威光である日光東照宮歴史・由来、見どころについてご紹介します。

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日光東照宮の由来

室町時代の末期、1467年の応仁の乱から1600年の関ヶ原の戦いまでの100年以上続いた戦国時代、関ヶ原の戦いに勝利し、戦国時代に幕を下ろし、江戸に幕府を開いた天下の大将軍が、徳川家康公です。

家康公は、幕府を起こした後、2年2ヶ月で息子の秀忠公に将軍を譲り、徳川家で将軍職を世襲する前例を作りました。

その後家康公は、1607年に駿府城(すんぷじょう)に移り、大御所として実権を掌握し続け、幕府の制度作りを行っていきました。

家康公は豊臣宗家滅亡のきっかけとなった大坂夏の陣の翌年である1616年、75歳で死去しますが、生前に、
「死後久能山に埋葬し、一年後に日光に小さなお堂を建てよ。
そうすれば、関東一円を見守る神となって、争いから救おう。」
という意味合いの遺言を残します。

家康公の遺言に従い、亡骸は駿府南東部の久能山に埋葬され、秀忠公により久能山東照社が創建されました。

また、これと同時に、1年後の日光への分霊の為に、日光でも社殿建設がはじまり、1617年に社殿が完成しました。
これが日光東照社の始まりです。

朝廷から、東照大権現の神号と正一位(しょういちい)の位階(※1)の追贈を受けて、家康公一周忌に、遺言に従い、日光東照社という神社として、家康公は祀られました。

※1 国家の制度に基づく個人の序列の標示で基本的には地位、身分の序列、等級といった意味。(出典:Wikipedia)

この日光東照社は、1645年に朝廷より、宮号を賜り、それ以降、東照社は東照宮と称することになります。

秀忠公は派手をこのまなかった人柄から、当時の日光東照社は現在の社殿のような豪華さがない社殿でした。

なお、この時の社殿は、天海僧正(てんかいそうじょう)の発願によって群馬県世良田の東照宮に移されています。

群馬県の世良田に移された理由は、家康公が征夷大将軍の地位を得るために源氏の系譜であると証明した新田家と関係があります。

戦国時代末期、豊臣秀吉は関白の地位を手に入れましたが、息子秀頼に後を継がせるにも、幼少の時期に秀吉は亡くなります。

そこで家康公は、秀頼が幼いうちに、豊臣家を抑え込み、征夷大将軍として自ら幕府を開くことにたどり着いたのでした。

ただ、征夷大将軍と任命されるには、源氏の血筋が求められました。

当然ながら、鎌倉幕府を開いた源氏、室町幕府を開いた足利氏は祖先ではありませんでしたが、歴史を調べていくと、源氏の祖先にあたる新田義重に行き当たります。

この新田義重の四男に義季がいました。

義季は、群馬県世良田とその隣の得川郷を領土としており、得川義季(とくがわよしすえ)と名乗っていました。

家康は得川義季を徳川(とくがわ)の祖とし、源氏の血筋と宣言し、征夷大将軍になったのでした。

この社殿を移した長楽寺ですが、得川義季が建立したものでした。よって、得川義季との正当性を高めるため、側近であった天海僧正を住職につかせ、長楽寺を復興させたのでした。

このような関係で、徳川発祥の地と言われる世良田に、当初の社殿を移したのでした。

3代将軍家光公は、祖父である家康公を尊敬し、神として信仰していました。

そこで、家康公の二十一回忌の法要を機会に東照宮の大改修を計画します。この際に、現在の豪華絢爛な社殿が完成します。

この工事は、大坂の陣で更地になったところに徳川家主導で新たな大阪城を建築した際の経験者を集めており、当時の建築技術の全てが注ぎ込まれ、「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」と言われています。

このときに建てられた多くの建物は現存し、重要文化財や国宝として指定されています。

また、この日光東照宮と隣接する二荒山神社、家光公の墓所となっている輪王寺を合わせた景観は、世界的にも貴重なものとして認められ、1999年に世界遺産として指定されました。

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東照社から東照宮へ、この社号の違いと“宮”を賜る意味

日本の神社には、「社」や「大社」、「神宮」や「宮」といった名前がつきます。

それぞれに意味があり、日本古来の神をまつる一般的な施設を神社と呼びます。

「神宮」は、皇族と縁の深い神社に付きます。

天皇家の祖先である天照大神を祀る伊勢神宮や明治天皇を祀る明治神宮などが有名な神社です。

「宮」は、皇族とゆかりがあったり、歴史上の重要な人物をお祀りした神社に与えられました。

徳川家康公を祀った日光東照宮や、菅原道真公を祀った大宰府天満宮などが、代表的です。

東照宮は、当初は東照社と呼ばれていましたが、この社号が“社”から“宮”に変わります。

これは当時の朝廷が家康公に敬意を表し、社号として宮を送ったためでした。

日光東照宮の見どころ 施設概要とその歴史

日光東照宮の社殿群は、そのほとんどが、1636年に3代将軍家光公によって建替えられたものばかりです。

当時の建築技術を存分に用い、延べ200万人の工夫がその技術を駆使し、社殿群の建設に携わり、社殿群の総工費は、今のお金にして400億円を超していったと言われています。

350年を超して現存するこれらの建物について、それぞれの概要や歴史をご紹介します。

石鳥居(いしとりい)

鳥居は神の世界と人間の世界の境としての結界の意味があります。

この鳥居には神明系と呼ばれるシンプルな構造で最上部が笠木一本でできている種類のものと、明神系と呼ばれる最上部が笠木と島木で作られた構造のものがありますが、日光東照宮の鳥居は後者の明神系の鳥居になります。

この鳥居は、秀忠公が創建した翌年の1618年、黒田長政によって奉納され、400年に渡り、崩れることなくその場で佇んでいます。

高さ9.2m、柱の太さは3.6mあり、柱と柱の間は6.7mある大きなものです。

江戸時代に造営された鳥居では日本最大の規模のもので、京都の八坂神社、神奈川の鶴岡八幡宮と合わせて、日本三大石鳥居の1基として数えられています。

日光東照宮の入口に位置することから、正門というべき「一の鳥居」です。

通称は石鳥居(いしとりい)と呼ばれており、こちらの呼び方が一般的になっています。

この石鳥居の石材は、黒田長政の納めていた福岡で切りだした花崗岩が使われています。

黒田長政の父、黒田官兵衛は、元々は豊臣秀吉の軍師として仕えていましたが、秀吉の死後、黒田親子は、関ヶ原の戦いでは東軍として豊臣方と戦います。

そこで功績をあげたことから、筑前国52万石を与えられました。

江戸幕府において1万石で藩と呼ばれていましたので、52万石は大大名でした。
規模の大きさでは10本の指に入る規模でした。

家康公の死後、黒田長政は、家康公への感謝の気持ちとして、この大鳥居を奉納したのです。

そして、福岡藩の力を他藩に知ら示すために、特別大きな鳥居を作ったとも言われています。

鳥居造営に使われた石は、現在の糸島市にある可也山から切り出しました。

そこから15個の巨石を大船に乗せ、太平洋側を渡り東京湾から、江戸川、利根川、渡良瀬川、思川と遡上し、現在の小山市からは日光まで陸路を運んだと言われています。

陸路では、牛や大勢の人々が修羅(しゅら)という木製のソリに乗せ運んだとのことですが、日光山の山道では、60トンを超える重量だったので、困難だったことが想像できます。

この移動距離は1,400kmにもおよび、トラックもクレーンもない当時としては、想像を絶する距離だったに違いありません。

黒田家の歴史を記した文書である黒田家譜には、木はいずれ朽ちてしまいますが、石は永久に伝わるものだと書かれているのだそうです。

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五重塔(ごじゅうのとう)

日光東照宮の五重塔は、若狭小浜藩主酒井忠勝によって、1650年に奉納されました。

その後1815年に火災で焼失してしまいましたが、1818年に忠勝の子孫である酒井忠進によって再建されたのが、現存する五重塔です。

この歴史から、1908年に国の重要文化財に指定されています。

高さは約36mで国内では六番目の高さで、東日本では一番高い五重塔となります。

五重塔の中心には、心柱と呼ばれる大きな柱があるのですが、この柱は地面に固定されておらず、天井から吊り下げられており、地表から10cmのところで浮いています。

これには屋根を固定させる働きや、屋根の上に設置している相輪が転げ落ちないようにさせるための働き、そして大きな地震がきても簡単に倒れないようにする働きがあると言われています。

また、時間の経過とともに、建物が縮んだ際に、心柱が天井を突き破らないようにと考えられた工法とも言われています。

五重塔は、石鳥居をくぐった左側にある塔で、京都のお寺などでみる五重塔とは雰囲気が違います。構造が違うのです。

京都で見る五重塔は上層階に進むにつれ屋根の面積が小さくなっていますが、日光東照宮の五重塔は、一階から最上階まで均一の面積で整えられています。

これには二つの要因があります。

一つは、作られた時期で構造が違うということです。

初層部から最上部まで均一で作られている塔は、比較的新しい時代のものであり、Aラインを描く上層階に進むにつれ屋根の面積が小さくなっていく塔については古い時代の塔だとされています。

二つ目は、日光の気候の問題です。

日光が山間に位置することで冬季が長く、積雪量も多いことからこのような構造をしているのです。

Aラインの塔の場合、雪の重みで屋根が傾いてしまうことから、耐久力の問題もあり、均一の屋根形状になっているのです。

また、この屋根には、二つ謎が隠されています。

それは屋根の裏側の垂木(たるき)です。

最上層とそれ以外の屋根の裏側の垂木の構造が違うのです。

最上層以外は、日本の仏塔では通例となっている和様の「並行垂木」となっていますが、最上層のみ唐様の「扇垂木」となっています。

建物は完成すれば後は朽ちるだけという考え方があります。

そのため、最上階の構造を変えることにより、完成品としてつくるのではなく、あえて未完のものという状態で作り、「朽ちない」という縁起担ぎをしたのではという説があるのです。

次に五重塔の装飾です。

五重塔の一層目にある蟇股(かえるまた)には、干支の彫刻が配置されています。

干支の順になっているものの、偶然なのか意図的なものかわかりませんが、虎年の家康公、卯年の秀忠公、辰年の家光公の三代の将軍が、全て塔の正面にあたる東側に配置されているのです。

残りは、南側に蛇・馬・羊、西側に猿・鶏・犬、北側に猪・鼠・牛の十二支が配置されています。

五重塔は通常、外から拝観するのですが、一般300円、小学生200円の拝観料で内部を見ることができます。

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表門(おもてもん)

日光東照宮最初の門である表門は、家光公による日光東照宮再建の際に創建された建物の一つです。

サイズは、奥行き6m、横幅6mあり、左右に仁王像が安置されています。

このことから、表門は仁王門(におうもん)とも呼ばれています。

門の構造は、本柱四本と、それとは別に前に四本、後ろに四本の八本柱があることから、八脚門という種類の門になります。

石鳥居が第一の門であるのに対し、この表門は第二の門となります。

この門の見どころは、実は表側と裏側で安置されている像が異なるところです。

表門の正面には仁王像が安置されていますが、裏側には狛犬が安置されています。

この仁王像・狛犬は、共に阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)※のセットになっています。

門の垂木の下にある蟇股(かえるまた)には、霊獣の彫刻が多くみられます。

特徴的なのは、戸口の上部に設置された空想上の生き物である獏と、主柱の上に設けられた牡丹の彫刻です。

獏とは、中国から日本に伝わった伝説の生物です。

室町時代末期頃には、獏の図は縁起物として広がりはじめ、江戸時代には獏を描いた札が縁起物として流行し、獏の形をした獏枕が作られたりもしていました。

色々な彫刻が見られるので、じっくり拝観してみましょう。

※「阿」は梵字[ぼんじ]で口を開いて発する最初の音で、仏教では物事の始まりを表し、「吽」は梵字で口を閉じて発する最後の音で、仏教では物事の終わりを表します。

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三神庫(さんじんこ)

日光東照宮の中には、神様のお道具箱である、上神庫( かみじんこ )・中神庫( なかじんこ )・下神庫( しもじんこ )という3つの建物があります。
この3つの建物を三神庫と呼んでいます。

表門を抜けてすぐの右手には下神庫があり、表門の正面に中神庫、その左隣に上神庫と並びます。

三神庫の役割は「倉庫」ですので、通気性のよい「校倉造り」で創建されています。

創建時期は不明で、秀忠公による創建時である1615年から1660年辺りだとされ、有力なのは家光公による再建期である1635年頃だと言われています。

そのため、こちらの建物も歴史的な価値が高く、1908年には国の重要文化財に指定されています。

この神庫の内、中神庫と下神庫には、春秋渡御祭「百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろいせんにんむしゃぎょうれつ)」で利用する馬具や1200人を超す参加者が着用する甲冑(かっちゅう)などが収納されています。

百物揃千人武者行列は、元々は家康公の命日に行われていた祭事で、起源は家康公を久能山から日光へ移した際の行列を表した祭事であると言われています。

一方、上神庫には、御神宝と呼ばれる神様へお供えするための宝物が収納されています。

そのため、2つの神庫と違い、日光東照宮を守護する象の彫刻が施されています。

この象の彫刻は、日光東照宮が世界に誇る「三猿」「眠り猫」に並ぶ三彫刻の一つとされています。

この象は、神神庫が江戸時代には「御宝蔵(ごほうぞう)」と呼ばれていたこともあり、蔵と象のゴロ合わせで選んだといわれています。

この象の下絵を描いた狩野派の巨匠である「狩野探幽」は、描く段階では象を見たことがなく、想像上のイメージで書いたと言われています。

そのため、左側の象は、全身が毛むくじゃらであったり、しっぽが三本生えていたりしています。

また右側の象は、三日月のような形の目をしており、にこやかな雰囲気の顔つきになっています。

中神庫の中にも、鶴や亀などの彫刻が施されているのですが、倉庫の中なので、覗くことはできません。

三神庫は修繕が終わったばかりということもあり、倉庫とは思えない創建当時のまばゆい黄金に光り輝いています。

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神厩舎(しんきゅうしゃ)・三猿

日光東照宮の神厩舎は、家光公による再建の折りの1636年に創建されました。

こちらの建物は、他のものと違い、派手さや豪華さはありません。

うるしなどでの塗装や加工もされていないことから、「素木造り(しらきづくり)」で造営されています。

こちらも歴史的な価値から国の重要文化財に指定されています。

家康公がこの世を去った後に、家康公の愛馬が主の永眠を守るための御奉公の場として創建された建物です。
つまり神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩(うまや)なのです。

ですが、常時繋がっているわけでなく、毎日午前10時から正午までが神馬の勤務時間で、雨の日には神馬は休みになります。

神馬に会えるのは、荒天時でない日の午前中の2時間です。

この神馬ですが、初代の神馬は家康公が関ヶ原の戦いを共にした名馬だったそうで、1630年まで日光東照宮で奉公したそうです。

この神馬の石碑は日光東照宮の境内に現存しており、「神馬の碑」として残っています。

神厩舎ですが、昔から猿が馬を守るとされていることから、建物正面の長押上(うわなげし)※には猿の彫刻が8面あり、西側の壁面にも3面彫られており、合計で16匹の猿が彫られています。

なぜ馬小屋に猿の彫刻かというと、これには、室町時代に病気の馬を飼っていた馬小屋に猿が侵入して一泊した際に、翌日には馬の病気が治ったという話しが広がり、「馬と猿は相性がいい」と言われるようになったのが所以となっているそうです。

8面のパネルで、人間の一生を風刺しており、その中の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」が有名です。

※柱と柱の間をつなぐ横材。

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御水舎(おみずや)

神様にお参りする際に、手を洗い、口をすすぎ、心身をを清めるための建物が御水舎です。

この御水舎は御水屋と水盤で構成されています。

まず建屋ですが、こちらは家光公の再建時に作られたもので、1636年に作られました。

十二脚唐破風造(じゅうにきゃくからはふづくり)と呼ばれる造りで、四隅に各三本ずつの柱が寄せ集められた造りになっています。

この柱には御影石が用いられており、まるでギリシャの神殿のようなイメージの柱となっています。

また、建物には飛龍の彫刻が施されています。

この飛龍ですが、中国から天空をかけ火を噴く想像上の生き物とし、火を司る象徴として伝わりました。

ただ、大量の火を噴くことから身体が高温になり、熱を冷ますために大量の水が必要であろうと当時の人々は考え、「火難から守護する水の霊獣」と位置付けられたのでした。

そのような背景から、日光東照宮全体を火難から守護する飛龍という理由で、御水舎に備えつけられているのです。

次に水盤ですが、1618年に佐賀藩主鍋島勝茂公によって奉納されました。

この年は、家康公の3回忌に当たる年で、その記念として納められたものでした。

それまで、手を清めたりするのは、近くに流れる川の水を利用していました。

このような水屋が造られるようになったのは江戸時代初頭と言われており、この日光東照宮の御水舎が日本の御水舎の起源であるとも言われています。

御水舎も他の施設と同様に1908年に国の重要文化財になっています。

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陽明門(ようめいもん)

日光東照宮を代表する美しい門であり、日本を代表する門でもある陽明門は、1617年に創建されました。

これまで、1636年・1973年・2017年に再建されています。

1908年に重要文化財に指定され、1951年には国宝に指定されました。

この門は、いつまで見ていても見飽きないところから、「日暮の門」ともよばれています。

また、「勅額門(ちょくがくもん)」とも呼ばれています。

これは、天皇が直に筆にて書いた文字を額にして送ったものを「勅額」といい、「後水尾天皇」が直筆で「東照大権現」と書いた勅額があるためです。

現在の陽明門は、徳川家光によって再建されたもので、当時の建築様式や工芸、彫刻、絵画などの文化の全てが凝縮されています。

平成の大修理では約4年間で修復工事が行われ、金箔が24万枚使用され、約12億円の総工費になったと言われています。

陽明門には故事逸話や子どもの遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされ、随身像が設置されています。

随身像はお寺でいうところの仁王像と同じ役割です。

廻廊(かいろう)

陽明門の左右に延びる建物で、1636年に創建され、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られています。

入母屋造りで、総漆塗りで仕上げられています。

陽明門同様に、1908年に重要文化財に指定され、1951年には国宝に指定されました。

回廊の南側には、計25枚の大彫刻が飾られています。

この彫刻は、一枚板の透かし彫りとなっており、最も大きいものでは、縦幅1m、横幅2mのものがあり、全ての彫刻に、極彩色が施されています。

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唐門(からもん)

唐門は、1617年に創建され、1636年に再建された門で、1908年に重要文化財に指定され、1951年には国宝に指定されました。

本殿を守護する真正面の門で、四辺に唐破風(からはふ)造りの屋根が備えられており、四方唐破風造と呼ばれています。

左右に目を惹きつける昇龍と降龍の彫刻が施されていますが、この他にも611体の彫刻が施されており、陽明門の508体よりも100体以上多くなっています。

「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻があるほか、七福神や八仙人といった彫刻なども見られます。

このようなことからも、徳川家の思想や家格、威厳などを表現している重要な意味を持つ門であると言えます。

この門は、江戸時代では、将軍に謁見できる地位のもののみがくぐることを許されていたとのことです。

御本社(ごほんしゃ)

本殿・石の間・拝殿から構成されており、日光東照宮の最も重要な部分で、例祭をはじめ、年中祭典が斎行されます。

こちらは、1617年に創建されて、1636年には家光公によって再建されており、2013年にはその当時の姿へと復旧再建工事が行われました。

1908年に重要文化財指定を受け、1951年には国宝の指定を受けました。

御祭神は、東照大権現こと徳川家康公であり、相殿に豊臣秀吉公と源頼朝公が祀られています。

理由は、征夷大将軍を拝命するのに、源氏の血統が求められ、歴史上最初の幕府を開いたことと、日光を開拓したことから源頼朝は祀られたといいます。

豊臣秀吉については、なぜ祀られたかという理由は謎なのだそうです。

石の間については、石が敷き詰められた床をイメージする人もいるかもしれませんが、こちらは約20畳の畳の間になっています。

この石の間の由来は、古来では床が敷石であったことに由来しています。

本殿から5段、拝殿から3段下がった床に広がっており、本殿と拝殿とを連絡しています。

権現造の構成では重要な意味を持つ部分であり、神界を意味する本殿と俗世界を意味する拝殿との狭間の空間の意味があるのです。

そのため、神事を執り行う際には、この石の間を中心として行われているのです。

拝殿の左右には、「将軍着座の間」・「法親王着座の間」があります。

中心の「中の間」は63畳の広さがあり、右側の「将軍着座の間」は約18畳、左側の「法親王着座の間」も18畳の広さとなっています。

合わせると99畳もの広さになります。

この御本社ですが、江戸時代では、日本全国の大名でも拝殿までしか立ち入ることが許されませんでした。

そして大名の格付けで座る位置も決められていました。

その際に将軍の座る場所として作られたのが将軍着座の間でした。

この天井中央部には、三つ葉葵が描かれており、将軍はこの真下に座っていたと言われています。

現在この将軍着座の間については一般公開は一切されておらず、徳川家康直属の一族である「徳川宗家」の方々がご参拝した際にのみ、開放されることになっています。

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神輿舎(しんよしゃ)

神輿舎は1636年に創建された建物で、春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、三基の神輿(みこし)が納められている建物です。

この神輿が三基ある理由ですが、本殿で家康公と相殿として祭祀されている御祭神の「豊臣秀吉公」と「源頼朝公」の御霊をお乗せする神輿であるからです。

現在使われている神輿は、昭和40年に制作されたもので、それまでは1636年位制作された神輿を使用していたとのことです。

祈祷殿(きとうでん)

祈祷殿は、1635年に創建された建物です。

結婚式や初宮などの御祈祷が行われる建物です。

日光東照宮の建物は、金と黒を基調とした建物が多いですが、その中でも比較的落ち着いた建物になっています。

この建物では、「家内安全」「交通安全」「身内健全」「厄除開運」「初宮詣」「七五三詣」「事業繁栄」「商売繁盛」などのご祈祷をしてもらえます。

このご祈祷を入口料金所で申込み、ご祈祷と参拝に来たと伝えると、入場料は無料になります。

個人でご祈祷をお願いする場合、初穂料は1件5,000円からとなり、所要時間は10分から15分となります。

また、団体(20名以上)での祈祷も対応しており、団体の場合は、1人あたり2,300円、または3,000円となります。

眠り猫(ねむりねこ)・坂下門

眠り猫は、左甚五郎(ひだりじんごろう)が1634年の家光公による造替時に制作したたと言われています。

縦約15cm、横20cmのサイズとなっています。

東回廊の出入り口部分に彫られた彫刻で、三猿と同じく有名な彫刻です。

牡丹の花の中でうたたねしているところから、「日光(浴)」にちなんで作られたとも言われています。

眠り猫の裏側には、スズメの彫刻がありますが、これは、スズメは、猫が寝ていれば共存できるので、そのような平和な様子を表していると言われており、恒久平和の象徴として作られたと言われています。

これは、猫が眠りにつくほど、徳川幕府の時代が平和であり、この平和が末永く続くであろうという背景があります。

眠り猫も国宝指定となっています。

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眠り猫(ねむりねこ)・坂下門

眠り猫は、左甚五郎(ひだりじんごろう)が1634年の家光公による造替時に制作したたと言われています。
縦約15cm、横20cmのサイズとなっています。

東回廊の出入り口部分に彫られた彫刻で、三猿と同じく有名な彫刻です。

牡丹の花の中でうたたねしているところから、「日光(浴)」にちなんで作られたとも言われています。

眠り猫の裏側には、スズメの彫刻がありますが、これは、スズメは、猫が寝ていれば共存できるので、そのような平和な様子を表していると言われており、恒久平和の象徴として作られたと言われています。

これは、猫が眠りにつくほど、徳川幕府の時代が平和であり、この平和が末永く続くであろうという背景があります。

眠り猫も国宝指定となっています。

奥宮(おくみや)

日光東照宮の御本社の裏に、奥宮が存在します。

ここは、徳川家康公のお墓がある、もっとも神聖な場所です。

日光東照宮の中でも標高が一番高い位置にあり、眠り猫の門をくぐって森の中を進んでいくと、奥宮の拝殿と家康公が埋葬されている墓所である宝塔にたどり着きます。

途中、家康公の御遺訓が書かれた看板が設置されていたりします。

奥宮は、江戸時代であれば、徳川将軍しか立ち入ることが許されず、昭和40年の日光東照宮三百五十年大祭までは、一般公開されていませんでしたが、現在は、一般人も入れます。

坂下門をくぐり207段の石段を上ったところに、奥宮の入口になる銅鳥居が建っています。

この鳥居は、1683年に5代将軍徳川綱吉公が奉納した鳥居であり、鳥居の扁額は、後水尾天皇の勅筆となっています。

この鳥居の隣には、銅製の神庫が建っており、この中には家康公の甲冑や刀剣などの愛用品や位記といった書物などが納められていました(現在は宝物館に移されています)。

奥宮の拝殿については、1617年に創建され、現在の建物は、1636年に家光公によって再建されたものです。

ここは、徳川将軍が神となった家康公に祈りをささげるためのものでした。

この奥宮の拝殿の奥に、家康公のお墓である宝塔があります。

この塔は約5mの高さがあり、八角形で9段積みとなった基壇の上に宝塔が建てられています。

この塔の下で家康公は眠っていると言われています。

この宝塔ですが、日光東照宮でもっとも強いパワースポットとして有名になっています。

パワーの源泉である家康公が眠る場所ですので、巨大な力を感じられることでしょう。

また、家康公のお墓の脇にあるご神木である「叶杉」にお願いをすると、「叶鈴守(かなえすずもり)」を授かることができます。

こちらは、お守りについている眠り猫が取れない限りは、永久的に使えるお守りとして有名です。

東照宮内でもこちらでのみ販売されているお守りとなります。

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国宝や重要文化財の宝庫、日光東照宮宝物館

日光東照宮は徳川家康公を御祭神として祀られているため、この宝物館では、家康公の愛用した物や、朝廷や徳川将軍家、諸大名家から奉納された品物の数々、当宮の祭器具など2,000点近い品物を収蔵し、展示公開しています。

国宝の「太刀・銘助真(たち めいすけざね)」や「太刀 銘国宗(たち めいくにむね)」といった鎌倉時代中期に作られた太刀のほか、家康公御着用の「南蛮銅具足」や、名刀「勝光、宗光」などの刀剣類、寛永の大造替に際して上棟祭に用いられた「大工道具及び箱」、「東照社縁起」といった重要文化財の数々、家康公御画像など、貴重な御神宝などを見学することができます。

館内は、完全バリアフリーとなっていて、車いすの方でも拝観が可能です。

日光東照宮の拝観料・拝観時間について

日光東照宮は季節によって拝観できる時間が違います。

4月1日から10月31日までは午前8時から午後5時まで、11月1日から3月31日までは午前8時から午後4時までとなります。

受付は、閉門時間の30分前までです。

拝観料ですが、日光東照宮では3つの拝観料があります。

表門より陽明門・拝殿・石の間・東回廊(眠猫)・奥宮・本地堂(鳴龍)など日光東照宮一体の拝観料と、宝物館への入館料、そして美術館への入館料となっています。

まず、日光東照宮単独拝観料ですが、大人(高校生以上)は1~34名までは、1人当たり1,300円で中学生以下は450円となっています。

35名以上の団体は割引きになり、大人は1,170円、中学生以下は405円となります。

次に宝物館ですが、こちらは高校生以上1,000円で団体900円、中学生以下は400円で団体360円となっています。

美術館については、大人29名までは1名当り800円、30名以上の団体は640円、高校生は600円で団体480円、中学生以下は400円で団体320円となっています。

美術館は、団体の人数、高校生以上は高校生と大人に料金区分が分かれているので、注意が必要です。

また、日光東照宮と宝物館にはセット券があります。

高校生以上は2,100円で団体1,970円、中学生以下770円で団体は725円となっています。

セットで買っておけば、個別に拝観料を払うよりも安くなり、家族などで行く場合は、お得ですので、セット券を購入するようにしましょう。

拝観料とは別に境内の29の建物を含む35項目の案内を音声で行う音声案内を祈祷受付所で借りることができます。

こちらは一日500円と預け金500円で利用が可能です。

預け金の500円については、タッチペンとヘッドホン等の借りた機器を返却した際に、返してもらえます。

受付時間は、閉門の1時間前までとなっています。

音声案内は、1項目当り、30秒から4分で案内してくれ、境内を1時間30分程度で回るのに最適となっています。

日本語には大人用と子ども用があるほか、英語と中国語の3ヶ国語が用意されていますので、海外からのお客様を連れて行かれる場合には喜ばれるでしょう。

なお、団体で利用したい場合は、日光東照宮社務所へ問い合わせれば対応してくださいます。

日光東照宮へのアクセス方法について

日光東照宮の住所は、栃木県日光市山内2301です。

自動車で訪れる場合は、東北自動車道宇都宮インターチェンジより日光宇都宮道路に乗換え、日光宇都宮道路の日光インターチェンジで一般道に降り、国道119号線を西に約2km走り国道120号線に変わってすぐのところです。

公共交通を利用する場合、JR日光線と東武鉄道の東武日光線が乗り入れています。両駅ともすぐ近くに位置し、それぞれの駅から東武バスで移動します。

駅からは「中禅寺温泉行き」か「湯元温泉行き」に乗車し、約7分で「西参道」という停留所に着きますので、こちらで下車することになります。バス停から約5分となっています。

日光東照宮へのアクセス方法について

日光東照宮には数多くの国宝や重要文化財に指定された建物があります。

全ての建物において、豪華な装飾や数々の彫刻が施され本当に感動する歴史的な建造物群です。

家康公は、財産を蓄えるのに秀で、陽明門は山の龍脈に沿って作られたりと、風水的にも強い力のある場所だそうで、金運・出世・勝負・現状打破などの願掛けにも最適な神社とされています。

世界遺産観光として楽しむとともに、自分の願いを叶える目的として日光東照宮に参拝してみてはいかがでしょうか。

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