直江兼続 上杉謙信の後継者上杉景勝を支えた家老の人生

直江兼続 上杉家を支えた家老の人生と功績

上杉謙信亡き後、越後国(新潟県)では後継者を巡り、謙信の養子である上杉景勝(かげかつ)と同じく養子の上杉景虎(かげとら)の義兄弟が、「御館の乱(おたてのらん)」を繰り広げ、景勝が勝者となりました。

内乱により疲弊した越後を平定し、第2代当主となった景勝でしたが、この時、わずか24歳。尾張(愛知)では天才・織田信長が台頭しており、苦難の道が待っていました。それを二人三脚で進んだのが、謙信の実家である長尾氏に代々仕えていた直江兼続(なおえかねつぐ)だったのです。

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兼続は景勝の4歳下ということもあり、年齢の近かった二人はやがて強い絆で結ばれますが、幼い頃から長尾氏の拠点である春日山城に入り、景勝の小姓として仕えていました。

小姓とは、武士の役職で、武将に仕えて諸々の雑務などをこなす仕事のことです。幼少時の確かな記録はありませんが、母が上杉家の重臣である直江景綱(かげつな)の妹とする説があります。

この直江景綱こそ、後に兼続を養子として迎えた人物です。景綱には男子がいなかったため、婿養子である直江信綱(なおえのぶつな)が家督を継ぐはずでしたが、御館の乱における恩賞を巡り、毛利秀広(もうりひでひろ)に殺害されてしまったため、信綱の妻を娶って直江家を相続したのです。また、直江家相続には上杉景勝の命があったともいいます。信頼する兼続を直江家に入れることで、より近い立場で政治を行っていけるという考えもあったのでしょう。

上杉氏は謙信の時代から織田氏とは敵対関係にありましたが、御館の乱の混乱が収まらない天正9年(1581年)、乱の恩賞を巡った対立で北越後の武将・新発田重家(しばたしげいえ)が織田信長に寝返った上、柴田勝家が率いる織田軍約4万に隣の越中国まで侵攻されてしまいます。翌年には同盟関係にあった甲斐の武田氏が滅亡したことで頼る相手もなく、上杉氏は早くも滅亡の危機に立たされました。

しかし、天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で自害すると、織田軍は撤退しますが、内乱と織田軍との戦いにより国力は弱り、領土の一部を割譲するなど、景勝の時代は苦い始まりとなったのです。

一方、兼続は与板城(よいたじょう)の城主となり、御館の乱で戦功を挙げた狩野秀治(かのうひではる)とともに、2人での執政態勢に入ります。

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天正11年(1583年)には、山城守(やましろのかみ)を称し、直江山城守兼続となりました。本来、山城守とは山城国(京都府)を守護する武将に対し、朝廷が与える役職でしたが、戦国時代には意味を持たなくなり、君主から与えられたり、自ら名乗ることもあったのです。

翌年、狩野秀治が病で倒れると、兼続が政治のほぼすべてを担うことになります。若くして家老となった兼続は、景勝を助けながら死ぬまで一人で執政を行ったといいます。当時の家臣たちは景勝のことを「上様」「殿様」と呼ぶ一方、兼続のことは「旦那」と呼び、二人の間柄が近しいものだったことが分かるほか、若いながらも上杉家の家臣たちの信頼を得ていたことも分かります。

天正16年8月(1588年10月)、豊臣秀吉が権力の頂点に立つと、主君・景勝とともに上洛し、秀吉から豊臣の姓を授けられ、改めて山城守の称号を受けることとなります。豊臣姓を授けられたのは、儀礼的な意味であり、いわば上杉家を仕切る兼続への褒美と思えばいいでしょう。

秀吉は景勝と共に兼続を高く評価していて「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人しかいない」と評しました。また、この頃には上洛が度重なり、京では兼続が文人として活躍しています。中国の古典や歴史書なども積極的に集め、前田慶次こと前田利益(まえだとします)とも交流を持つようになりました。

天正17年には、佐渡島の平定に景勝と共に従軍し、平定後は秀吉直々に佐渡の支配を命じられ、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦しています。小田原征伐とは、豊臣氏に最後まで抵抗した小田原(神奈川県小田原市)の北条氏を討伐するための遠征で、秀吉自らが兵を率いて最後はこれを兵糧攻めで陥落させています。これで秀吉の天下人としての地位は確固たるものになりました。

安定した豊臣政権下において兼続の政治の才能が発揮されます。戦乱により疲弊した越後を立て直すべく、農民には田畑の開墾を奨励し、兼続の時代に行われた新田開発が現在の米所・新潟の礎となったのです。産業、商業の発展にも注力し、やがてその努力は謙信の時代に劣らない繁栄を実現したことで報われました。

慶長3年(1598年)、景勝は秀吉に越後から会津(福島県)への国替えを命じられます。といっても、石高は120万石に増え、兼続にも出羽米沢(山形県)に6万石の所領が与えられます。謙信公から守り続けた越後を離れることは辛かったでしょうが、天下人の命令とあれば仕方ありません。しかし、このふたつの領地の間には最上(もがみ)氏の領地があり、これが後に上杉氏の存亡を賭けた問題となるのです。

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慶長3年8月、豊臣秀吉の死去により、上杉景勝や徳川家康らが就いていた五大老の間に亀裂が生じ始めます。徳川家康がいよいよ天下取りを目指してその素顔をさらけ出したからでした。

五大老は、秀吉亡き後、息子の豊臣秀頼を補佐して政治を行うための役職であり、上下関係はないはずでしたが、家康の影響力が大きくなっていったのです。ここで、石田三成と家康の溝も深まりました。

一方、景勝と兼続は、会津の前領主・蒲生氏の若松城に代わって、新たな城を築き始めます。これは戦いのためではなく、町の発展のために水運の利便性を高めるという目的だったのですが、このことが家康の耳に入ると、景勝に上洛を求めてきます。新たに城を築城し謀反を企てているのではないか、その真相を探るためでした。

しかし、天下人でもない家康に景勝は従いません。しかも、家康を徴発するような内容の書状「直江状」を送りつけたのです。会津に移ったばかりで何度も上洛はできないこと、上杉の謀反を疑っているのなら、まずはそう言い出したものに問いただせばいいこと、そして、証拠もなしに謀反だという家康こそ好き勝手にやっている、という内容でした。景勝も兼続もよほど頭にきてたのでしょう。

直江状に激怒した家康は、上杉氏と戦うため会津征伐を行います。このとき、領地を接する最上氏と上杉氏の関係は悪く、会津征伐に乗じて最上氏も上杉氏に戦いを挑むことになりました。さらに東北の徳川に味方する勢力も最上領に集まり、このままでは敗北は必至の状況となります。

しかし、ここで家康の元に「石田三成挙兵」の知らせが入り、急遽、家康は上杉攻めを中止して、関ヶ原へと向かいました。このことで、他の最上側勢力も攻撃を中止します。ですが、このあとの関ヶ原の戦いで家康が勝利し、徳川の天下となったことで上杉氏は、慶長6年(1601年)7月に上洛して謝罪。許された景勝は石高を30万石に減らされて出羽米沢へ国替えとなります。

しかし、新天地でも兼続は内政に力を注ぎ、治水工事や堤防の建設、城下へ必要な水を流すための用水路の建設などの工事の他、貧しい下級武士たちのために自作自農を教えた本を作り、自給自足できる体制を作り上げました。上杉氏は石高を減らされたにも関わらず、家臣を解雇していなかったために藩の財政はとても厳しかったのです。こうして数々の偉業を成し遂げた兼続ですが、元和5年(1620年)、江戸に上京中に病に倒れ、景勝に見取られてこの世を去りました。享年60。

景勝と二人三脚で上杉家を支えた家老は、その後の米沢藩の礎を築き、静かにその人生を終えたのです。

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