京都五山物語~南禅寺・五山別格の歴史~

南禅寺・五山別格の歴史

「京都五山」は六つある―
鎌倉時代から室町時代にかけて、武士が日本の舵取りを担った時代に相次いで建立された六つの寺院「京都五山」。その言葉だけ聞くと矛盾しているかの如く聞こえますが、まぎれもない事実です。

なぜ「五山」なのに寺院が六つもあるのでしょう。

今回は「京都五山」の中から「南禅寺」の歴史を紹介することで、その謎をに解き明かしていきましょう。

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●第一話 南禅寺建立

京都市営地下鉄「蹴上」駅より、歩いて10分のところに臨済宗大本山南禅寺は建っています。国宝や重要文化財にあふれた境内は、まさに京都文化の粋が詰まっているといっていいでしょう。

建立は1291年。鎌倉幕府による全国支配が行われていた頃です。

提案したのは、第九十代天皇にして当時は既に退位していた亀山法皇でした。「蒙古襲来」の際には、世界最強のモンゴル帝国(元王朝)を相手に徹底抗戦の姿勢をとり、朝廷を主導した人物です。

在位中にしたためたという「敵国降伏」の宸翰(しんかん:天皇の直筆)は今なお福岡の筥崎宮(はこざきぐう)に飾られています。1289年、そんな亀山上皇も、離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)で落飾(出家)し、法皇となりました。そのとき帰依した宗派は臨済宗(りんざいしゅう)です。

臨済宗とは、禅宗(ぜんしゅう)の一つです。禅宗とは、簡単にまとめると、「釈迦の教えを座禅による直接体験で得る」ことを目的とした仏教の宗派です。そして、中国で禅宗を学んだ後帰国した、天台宗の僧侶栄西(えいさい)によって開かれたのが日本の臨済宗です。

栄西の慧眼は、当時政権が発足して間もない鎌倉幕府に目を付けたことでした。各宗派が跋扈している京都ではなく、鎌倉ならば勢力を広げられると踏んだからです。臨済宗は武士を中心に関東で浸透しました。そして、1202年には京都での拠点として建仁寺(けんにんじ:同じく「京都五山」の一つ)が建立されました。南禅寺が建立された時点では、臨済宗と朝廷の関係は既に深いものとなっていました。

南禅寺の建立を語る上で欠かせない人物が、開山(かいさん:寺院を創設した僧侶)の無関普門(むかんふもん)という僧侶です。彼は、禅の修行のため、二度も中国に渡り、二度目の帰国後は都を離れた正円寺(新潟県)で修行に明け暮れました。しかし、七十歳のとき、師匠である円爾(えんに)のお見舞いのため、京都の東福寺(とうふくじ:同じく「京都五山」の一つ)に行ったことをきっかけに、その名は広まりました。そして、周囲の懇願により東福寺の住持(住職)に就任しました。はっきりとした理由はわかりませんが、留学経験の豊富さを評価された可能性は高いです。

そんな無関普門に、亀山法皇は開山を懇願しました。きっかけは「妖怪」であったと言われています。禅林寺殿には、妖怪がたびたび登場したようなのですが、無関普門が座禅を組んだことによって、妖怪が退散した、という伝承があります。当時、無関普門は八十歳。非常に高齢ながらも彼は開山を引き受け、禅林寺殿は南禅寺と改称されました。

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●第二話 「京都五山」の謎

こういった建立の経緯から、南禅寺は勅願寺(ちょくがんじ:天皇・上皇が主体となって送検された寺)として一目置かれることとなります。日本史の教科書に記載されている名僧、一山一寧(いっさんいちねい)や夢窓疎石(むそうそせき)も南禅寺住職の経験者です。そして、室町時代には「五山」の一つとして、確固たる地位を築くこととなります。

ところで、「五山」の選定基準とは何でしょうか。

そもそも「五山」とは、臨済宗の第五位までに君臨する五つの寺院を指します。中国で行われていた仏教の組織体系を導入したものです。

当初は、鎌倉幕府によって鎌倉と京都から五つの寺院が選定されていましたが、室町時代に入ると、その選定が時の将軍の気分次第でころころ変わってしまいます。そして、あの寺もこの寺もと、いろんな寺が追加された結果、1358年には十の寺による「五山」が構成されました。その構成は以下の通りです。

第1位:南禅寺(なんぜんじ)・建長寺(けんちょうじ)
第2位:天竜寺(てんりゅうじ)・円覚寺(えんかくじ)
第3位:寿福寺(じゅふくじ)・
第4位:建仁寺(けんにんじ)
第5位:東福寺(とうふくじ)・浄妙寺(じょうみょうじ)・浄智寺(じょうちじ)・万寿寺(まんじゅじ)

※傍線部は京都の寺院

「五山」と称しながらも、1位の寺が2つあったり5位の寺が4つあったりと各順位の枠が無数に設けられていたのを、京都五山や鎌倉五山では、各順位につき寺を一つだけにすることによってその体を保っただけ、というずさんなものでした。ただ、当時は国内が「北朝」と「南朝」という二つの勢力が争っていた時代だったので、室町将軍も味方を増やすため、あらゆる寺院の顔を立てざるをえなかったという一面もありました。

そんなグダグダな「五山」を改革したのが、南北朝の争いを終結させた第三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)でした。きっかけは相国寺(しょうこくじ)を自身の邸宅である「花の御所」の隣に建立させたことでした。

義満は相国寺の「五山」入りを企んだのですが、ここで、相国寺を含めると「五山」の寺院数が十一になること、そして鎌倉の寺院が五つ、京都の寺院が六つあることを利用し、その見直しを図ったのです。

まず、南禅寺を除く十の寺院(相国寺を含む)を「鎌倉五山」と「京都五山」に分けました。そして、南禅寺を「五山の上」の別格として扱ったのです。

一見すると、何がどう変わったのかわかりづらいですが、この改革は大きな意味を持ちました。まず、同一順位に複数の寺がくることを防ぐことによって、他の寺院が「五山」に入る余地を防いだことです。寺院数の増減はなくなり、今に至るまでその地位は固定されることとなりました。

また、京都の南禅寺を序列のさらに上に置いたこと、相国寺を「京都五山」入りさせたことで、将軍のいる京都から全国各地の臨済宗系の寺院をコントロールしやすくなったことも大きな利点です。

勅願寺である南禅寺を五山の上の地位にある寺として選んだことは義満の政治力がいかに高かったかを物語ります。義満はまさに、南北朝統一と同様、禅寺の組織的統一を図ったのです。

「京都五山」は厳密に言うと「五山の上」である南禅寺を除くことができるのですが、それまでの経緯を考えると、けして「五山ではない」とは言い難く、現在では「京都五山」の括りに入ることも多いです。

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●第三話 黒衣の宰相 金地院崇伝

そんな「五山の上」南禅寺ですが、室町時代において、権勢を誇った期間は意外なことに短いです。

一番の原因は火事による焼失でした。特に、応仁の乱以降は京都が戦場となることも多く、再建ままならない状況が続きました。

思わしくない状況に転機が訪れたのは、以心崇伝(いしんすうでん)という僧侶が登場したことでした。金地院(こんちいん)という建物に住んでいたため金地院崇伝ともよばれることがあります。

1569年に生まれた崇伝は、一色氏という室町幕府重臣の家系でありながらも、幕府の崩壊によって僧侶としての生活を余儀なくされました。しかし、才覚に優れた崇伝は瞬く間に臨済宗系寺院の住職を歴任。1605年には37歳の若さにて「鎌倉五山」の一つ建長寺の住職となり、その年の内には、南禅寺の住職にも就任しました。

この才覚ある若き僧侶に目を付けたのが江戸幕府初代将軍、徳川家康(とくがわいえやす)でした。1608年以降、崇伝は政治顧問として幕府の政治に携わっていきます。

当時、江戸幕府はまだ設立されたばかりで、諸制度の整備が完成しておらず、家康は一人でも多く、法制度や外交に明るい人材を求めていました。ここで家康が老獪なのは、徳川家臣団の面子を汚さないために、武士ではなく僧侶や学者を政治顧問として側に置いたことです。

藤原惺窩、林羅山、南光坊天海そして崇伝が代表例になります。そして崇伝は家康の下でたぐいまれな才能を発揮していくこととなります。特に江戸時代初期の政治史では欠かせない「大坂の陣」と「紫衣事件(しえじけん)」は崇伝がきっかけで起こったと言われています。

1614年から始まる江戸幕府と豊臣家の戦い「大坂の陣」。そのきっかけは、豊臣家が再建した方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康の死を願い、豊臣家の繁栄を願う者として、幕府が抗議したことでした。

ただのイチャモンなのでは、と思うこの事件ですが、実はその粗さがしには崇伝が関わったと言われています。

1627年に起こった「紫衣事件」は、天皇が勝手に僧侶に紫衣(しえ:高い徳を持つとされる僧侶に与えられる袈裟・法衣)を渡したことが、幕府が定めた「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」に反するとして、時の後水尾天皇が退位させられた事件です。

この事件に対し、数人の高僧によって抗議文が幕府に提出されましたが、崇伝はその高僧たちに対し流罪を主張したと言われています。「禁中並公家諸法度」などの幕府の制度設計にはすべからく崇伝が関わっていたので腹が立ったのでしょう。

以上のような政治への暗躍から崇伝は「黒衣の宰相」と称されるようになったとも言われています。ただし、一方で南禅寺や建長寺の再建には力を尽くしたと言われています。

いかがでしたでしょうか。今に絶景を残す「五山別格」南禅寺。創建以来歩んだ歴史はけして平坦ではありません。歴史の情緒に触れながら、一度足を運んでみることをオススメいたします。

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