興福寺の歴史と国宝館、東金堂、南円堂、中金堂、北円堂、五重塔など見どころご紹介

興福寺の歴史と見どころについて

興福寺は、南都六宗の一つである法相宗(ほっそうしゅう)の大本山であるお寺です。

興福寺を含む地域一帯は、1998年12月、『古都奈良の文化財の一部』として、ユネスコより世界遺産に登録されています。

寺の歴史は非常に古く、飛鳥時代にまで遡ります。

大化の改新を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ(のちの天智天皇(626年~672年)))とともに成し遂げた中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が、669年に重い病気にかかり、鎌足の夫人である鏡女王(かがみのおおきみ)が鎌足の回復を祈願し、釈迦三尊像や四天王像などの諸仏を安置するために造営したのが始まりとして伝えられています。

ここでは興福寺の歴史を紐解くとともに、国宝館、東金堂、南円堂、中金堂、北円堂、五重塔、三重塔、仮講堂、大湯屋、本坊、菩提院大御堂、西金堂跡など興福寺の見どころについて紹介していきます。

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興福寺の歴史

興福寺の前々身は、中臣鎌足の妻であった鏡女王が病気になった夫、中臣鎌足の病気平癒を願い669年に近江で建立した山階寺(やましなでら)です。

鎌足は、鏡女王の願い届かず、同年10月16日に亡くなりますが、この際に、第38代天智天皇として即位していた中大兄皇子は、鎌足に藤原氏という性を送り、息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)より藤原性を名乗ることになりました。

天智天皇崩御後、672年の壬申の乱(※(じんしんのらん))を経て弟の天武天皇が即位すると、都は近江から飛鳥に戻されました。

※壬申の乱…天智天皇が亡くなったあと、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ(のちの天武天皇))と天智天皇の子の大友皇子(おおとものおうじ(のちの弘文天皇))との間で起こった皇位継承問題。

その際に、藤原不比等により、母が建立した山階寺も飛鳥に移設され、移設先の地名をとり、厩坂寺(うまやさかでら)に改称されました。
これが、興福寺の前身のお寺になります。

その後、第43代元明天皇(661年~721年)の時代に、平城京遷都が行われ、厩坂寺も平城京へ移設され、厩坂寺は興福寺として再度改称されました。

このように藤原氏の氏寺(※)として創建された山階寺は、遷都に合わせて2回移設され、3度目の地で興福寺としての歴史をスタートさせました。

※氏寺…特定の氏族一門が帰依し,祈願所または菩提所とした寺院。

藤原鎌足以降、藤原一門は、娘を天皇の妃にし、外戚になることで朝廷で権力をもつようになっていきます。

天武天皇の孫にあたる第42代文武天皇(683年~707年)の妃には、藤原不比等の娘がなり、後の聖武天皇(701年~756年)が生まれます。

平城京に移設された興福寺は、藤原氏の私寺でしたが、720年には「造興福寺仏殿司」という役所が朝廷に置かれます。

飛鳥時代から奈良時代には、国が管理する寺を新たに作る場合や貴族・豪族の氏寺を国の監督下にする場合は、朝廷に役所を作ることとしており、興福寺にも管理する役所が朝廷に作られたのです。

藤原不比等やその子どもたち藤原四兄弟の天皇家への影響が大きくなるにつれ、天皇や皇后個人の願いで伽藍を建てる際には興福寺が選ばれることが多くなり、興福寺に多くの建物が整備されていったと推測されます。

その結果、興福寺にも国の祈願所が置かれ、奈良時代には四大寺(※(しだいじ))の一つになりました。

その後、祈願所の置かれる寺が増え、奈良時代末期までには、七大寺に発展し『南都七大寺』と呼ばれるようになり、興福寺はその1つとして参拝者が増え、賑わい栄えました。

※四大寺…朝廷の尊崇の厚かった4つの寺院。奈良時代では薬師寺、元興寺、興福寺、大安寺。
 南都七大寺…奈良時代に平城京及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の7つの大寺。
出典:Wikipedia

興福寺の南都七大寺への発展には、藤原不比等以降の藤原摂関家(せっかんけ)の力が大きく影響しました。

藤原不比等は、娘を文武天皇の妃として嫁がせたほか、4人の息子にも藤原四家(※(ふじわらしけ))として朝廷の中で力をつけさせていきました。

※藤原四家
藤原南家-藤原武智麻呂(680年 – 737年)
藤原北家-藤原房前(681年 – 737年)
藤原式家-藤原宇合(694年 – 737年)
藤原京家-藤原麻呂(695年 – 737年)
出典:Wikipedia

その中でも後に藤原摂関家と呼ばれるようになる北家(ほっけ)は、皇室との間で姻戚関係を構築し、左大臣藤原冬嗣((ふじわらのふゆつぐ)775年~826年。藤原北家 藤原内麻呂(藤原北家、大納言・藤原真楯の三男)の子)の子である藤原良房(ふじわらのよしふさ)の代では、第56代清和天皇(850年~881年)在位中に、初の摂政として政治の実権を握ります。

それ以降、藤原北家は代々の天皇で、摂政や関白(※)の立場に就き、政治の権限を掌握しました。

※摂政…幼帝・女帝に代わってすべての政務をとった職。
 関白…天皇を補佐して、政務をつかさどる重職。

藤原家の発展とともに興福寺に国の祈願所ができ、それに伴い庶民の信仰対象としても発展したのです。

一方で、嵯峨天皇(786年~842年)や清和天皇(850年~881年)の皇子たちで、皇位継承できなかった皇子たちは、皇族からはずれ、源氏、平氏といった氏を与えられ、地方へ散っていきました。

平安時代には、「神仏習合思想」により、仏教が神道に対し優位に立つ傾向が強まり(明治維新までは神様よりも仏様がより神様の本体に近いと考えられていました)、興福寺においても春日神社(現 春日大社)に影響力を強めていきます。

そして、独自の兵力である僧兵を使い、興福寺は大和国を完全支配するほどになります。

そのころの朝廷は、貴族政治により、戦いを嫌うようになり、軍隊を解散してしまい朝廷が管轄する武力がなくなってしまいます。

その結果、抑止力がなくなってしまい、暴力で解決しようとするような者が多く表れるようになってしまいます。

そこで、各地に散らばっていた平氏や源氏は、武士として政治の表舞台に出てくるようになります。
天皇の皇位継承などが絡み、保元の乱※(1156年)が興りますが、その際には、武力を持つ源氏・平氏といった武士の力を貴族は頼りにします。

※保元の乱…皇室の中で崇徳上皇と後白河天皇が対立し、藤原摂関家と清和源氏・伊勢平氏が敵味方に分かれて参戦した内乱

こうして、源氏や平氏といった武士は、朝廷という政治の世界に戻ってきます。

1160年の平治の乱※1の褒賞として、平清盛は大和国を知行国(ちぎょうこく)※2として与えられます。

※1平治の乱…後白河上皇の近臣が対立したことをきっかけに源氏と平氏が敵対した争い。平清盛を中心とする平氏が勝利した。

※2知行国…古代・中世の日本において、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権(国務権・吏務ともいう)を獲得し収益を得た制度、およびその国。
出典:Wikipedia

その際清盛は、平氏による統治に反発する興福寺など南都寺院を無視し、大和全域の警察活動や治安維持活動を行いました。
(1179年に後白河上皇が幽閉された際に、藤原氏も幽閉されていたことから、興福寺は平氏方に不満を持っていました。)

これに興福寺などの南都寺院は反抗の意思を見せます。

1180年に起こった富士川の戦い(※)で、平氏は敗走します。

※富士川の戦い…源平合戦の戦の1つで。源氏の勝利に終わる。

その際に、近江源氏の蜂起があり、興福寺など平氏に所領を圧迫されていた寺社は便乗して加勢したことで、平氏の矛先は興福寺に向くことになります。

清盛は、最初平和的な解決を図ろうと軽武装で500人の兵士を派遣したものの、そのうち60人余りが捉えられて、興福寺の僧兵により斬首されてしまいます。
これに激怒した清盛は、息子の平重衡(たいらのしげひら)を総大将として『南都焼き討ち』を行います。
これによって、反平家勢力となった興福寺は、源頼朝による平家討伐に協力したのです。

源頼朝は、平家討伐後、鎌倉幕府を開きますが、その政策の一つとして、各諸国に守護を設置しました。

大和国に対しては、平家討伐の功績により、興福寺を「大和守護」としました。

この守護というのは、鎌倉時代に成立した、国内の治安維持のために諸国に設置した国守護職をいい、現代でいう警察のことです。

興福寺には平安時代より武装化した僧侶(僧兵)が多く所属していましたので、僧兵が、実務の役割を果たしました。

この守護職は、後醍醐天皇(1288年~1339年)の建武の新政時やその後の室町幕府でも引き継がれ、興福寺が任務についていました。

戦国時代になると、室町幕府の将軍を追放した三好氏の重臣であった松永久秀(まつながひさひで)は、三好長慶(みよしながよし)より大和一国の管理を任せられます。

その後松永久秀は、一度は信長と同盟関係の立場になるも、1577年には、信長を信用しきれずに反旗を翻し、城に立てこもりをはかりますが、自害することで、大和国は織田領となります。

豊臣秀吉の時代には、太閤検地以降、春日神社(現 春日大社)と興福寺合わせた『寺社』に対し、2万1千知行が与えられることになりました。
江戸時代でも、徳川幕府からはこの知行は維持されたのでした。

信長が行った政教分離政策以降、興福寺は政治的な権力はなくなったものの、経済基盤は与えられたのでした。

ですが、それも明治に入り明治政府が執り行った『神仏分離』の影響で、寺の力はそぎ落とされてしまいます。
江戸時代まで神仏を習合してお祀りしていたのですが、明治政府は宗教政策の一環として、神道と仏教との区別を明確にしたのです。
その際に、神道国強化の方針から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が激化してしまい、多くの寺は破却されました。

この神仏分離の影響を一番大きく受けたのが、興福寺と言われています。

国から、神社に勤める僧侶は、還俗して神職に奉仕するようにという命令が下され、春日神社の社僧(※)だった興福寺の僧侶は、揃って春日神社の神主となってしまい、興福寺は住職不在で無住化してしまいます。

※社僧…本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に基づいて神社に建立された寺院で、仏事、神社全体の管理を担当した僧侶

そして、地領は没収され、宗名や寺号も名乗れなくなり、廃寺同様の状態にまで追いやられ、困窮した興福寺は、五重塔まで売却しました。

その結果、興福寺としての敷地は、お堂や塔の立つ敷地のみという状態になり、管理する住職が不在となった興福寺の伽藍は、承仕※(しょうじ)と呼ばれる僧体の人により日常の寺務はされました。その後、明治8年からは西大寺の佐伯住職により管理されるようになりました。

※承仕…僧侶の中での身分階級で、諸仏へのお勤めをする僧に仕える雑務係のような立場。

その中で、佐伯住職は興福寺復興の嘆願を行っており、明治14年に寺号の復号許可を申請し、明治15年に寺の管理権が、興福寺に戻されます。
それから、紆余曲折があったものの、国宝館の建設や各伽藍の修理などを経て、平成時代末には中金堂を復興させ、今日に至っています。

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興福寺の建物とその歴史

興福寺の伽藍は、奈良時代に創建されて以降、数々の火災などを被災し、焼失した歴史があります。

また、伽藍の建物も、長い歴史の中で、色々な人によって発願され作られています。

それぞれの伽藍の歴史や、祭られている仏像について説明します。

東金堂(とうこんどう)

東金堂は、726年に第45代聖武天皇(701年~756年)によって創建された金堂(本尊像を安置するために造られた堂)です。

聖武天皇は、叔母である先代の元正太上天皇((680年~748年)げんしょうだじょうてんのう)の病気全快を祈願して、東金堂を創建しました。

726年の創建以降、1180年の南都焼討の兵火で焼失、その後も1411年にも五重塔への落雷による類焼で焼失するなど、過去5度も焼失しており、その都度再建されてきました。

現在の建物は、1415年に再建された室町時代の建物で、1897年12月28日に重要文化財に指定されており、1952年3月29日には国宝に指定されました。

その姿は室町時代の再建であるものの、天平様式(てんぴょうようしき)で作られ、正面は25.6m、奥行きは14.1mで、寄棟造りの本瓦葺きとなっています。
この造りは唐招提寺の金堂とも近似しています。

本尊には、薬師三尊像が安置されており、本尊の薬師如来坐像(高さは255.0cm)と脇侍(わきじ)の日光菩薩立像(高さ300.3cm)と月光菩薩立像(298.0cm)で組み合わされ、ともに重要文化財に指定されています。

薬師如来坐像は、元々は飛鳥時代に山田寺の講堂に祀られていたものでしたが、平重衡の南都焼討後の復興期に、興福寺の僧兵が強引に東金堂に運びこんだものだと伝わっています。

この薬師如来坐像は、1411年の火災で焼失しており、室町時代に再興されたものが現存のもので、1411年の火災までの本尊は、仏頭だけが現存しており、国宝に指定されています。

三尊像以外でも、東金堂には、国宝に指定されている仏像が多く安置されています。

1196年に制作されている維摩居士(ゆいまこじ)坐像は1952年3月29日に国宝指定された鎌倉時代の仏像で、木造で定慶(じょうけい(12世紀後半の仏師))作と伝わっています。

維摩居士とは、釈迦の弟子のひとりで、在家で弟子になったと伝わっている人物で、古くより仏教徒の模範とされた人物です。

その他にも、文殊菩薩坐像、四天王立像、十二神将(じゅうにしんしょう)立像、正了知大将(しょうりょうちだいしょう)立像が安置されています。
東金堂は、一般公開されているため、これらの仏像は、いつでも拝観できます。

中金堂(ちゅうこんどう)

中金堂は、714年に藤原不比等の発願で作られた、興福寺伽藍の中心的な仏堂です。

本尊には、1811年に彫造された釈迦如来坐像が安置されており、周囲には、国宝に指定されている四天王像が安置されています。

伽藍の他の建物と比較しても被災回数は多く、平重衡の焼討をはじめ、戦災や火災などで7回焼失しています。

最後に被災した1717年の火災までは、その都度再建されてきましたが、この火災以降は、資金的な問題もあり再建されることがなく、100年後に仮堂が作られ近年まではその仮堂でしのいできました。

1989年に法相宗の総本山である興福寺住職である貫首(かんじゅ)に就任した住職の多川貫首が、中金堂の再建を発願し、1998年から実施された興福寺第1期整備計画による中金堂跡地発掘調査以降20年の歳月を経て、2018年に301年ぶりに再建させました。

多川貫首はこの興福寺で生まれ育ち、子どもの頃に寺か林か分からなくなっていたありさまに心を痛めたことから、一日も早く中金堂を中心とする境内を復興・整備し、「天平への回帰」を実現するのが役目だと痛感したことからの発願です。

天平様式の建物として復元された中金堂は、南向きの正面は、東西37m、奥行きが23m、高さ21mあり、奈良県内では、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物となっています。

北円堂(ほくえんどう)

北円堂は、721年に中金堂の北西側に、元明太上天皇と第44代元正天皇((げんしょうてんのう)680年~748年)によって創建された仏堂です。

元正天皇から「長屋王(ながやおう)」に勅命を出し、平城京遷都に力を注いだ藤原不比等が、平城京を見守ることができるようにと、藤原不比等の1周忌に際して、その冥福を願って創建したと云われています。

平安時代末期にあたる1180年に一度焼失し、その後1210年頃に再建され現在に至っています。

興福寺の伽藍内で、三重塔と並び最も古く、一面4.9mの本瓦葺きの八角堂で、鎌倉時代の再建物でありながらも、奈良時代創建当時の姿をよく残していると云われています。

1897年12月28日に重要文化財に、1952年3月29日には国宝に指定されています。

本尊には、国宝に指定(1951年6月9日)されている弥勒如来坐像、両脇に法苑林(ほうおうりん)菩薩像・大妙相(だいみょうそう)菩薩像、その背後に、国宝の世親菩薩立像(せしんぼさつりつぞう)と無著菩薩立像(むちゃくぼさつりつぞう)、さらにそれを四方より囲むように国宝の四天王立像が安置されています。

弥勒菩薩坐像と世親菩薩立像、無著菩薩立像は、鎌倉時代に運慶によって監修彫造され、四天王像は平安時代の彫造仏で、791年に造立されたと云われ、興福寺に安置されている仏像の中では最も古い仏像になります。

四天王像は、弥勒如来像より後の1956年6月28日に国宝指定を受けています。

弥勒菩薩像の脇侍である法苑林菩薩像・大妙相菩薩像は、室町時代の彫造になります。

北円堂は、春と秋の年に2回特別公開され、その際に仏像を拝観することが可能になっています。

南円堂(なんえんどう)

南円堂は、813年に藤原冬嗣の発願によって創建された仏堂です。

藤原冬嗣は、藤原北家の4代目に当たり、父である藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の冥福を願って創建したと云われる八角堂です。

南円堂は、これまでに平重衡の南都焼討など、3度焼失しており、現在の南円堂は、4代目に当たる建物で、1789年に再建されたものになります。

江戸時代に再建された建築物であるにも関わらず、その雰囲気はかなり古い時代を思わせる建物となっており、八角堂としての規模は、日本国内で最大級の大きさをほこります。
1986年12月20日には、国の重要文化財に指定されています。

創建時には、地神を鎮めるため、石造りの基壇を建設する際に、「和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)」や「隆平永宝(りゅうへいえいほう)」など、当時のお金を地面に撒きながら建設を進めたというエピソードが残っており、発掘調査の結果から明らかになっています。

この地鎮の儀式には、真言宗の開祖である空海が深く関わっており、南円堂設計自体にも関わっていたと云われ、建造は空海主導で行われました。

空海は藤原冬嗣から創建にあたり助言を求められ、法相宗である興福寺の中でも、特に真言宗との関わりの深い特殊な位置付けの仏堂にもなっています。

南円堂の本尊には、国宝の不空羂索観音菩薩坐像(ふくうけんさくかんのんぼさつざぞう)が安置されています。

この像は、鎌倉時代に彫造され、作者は康慶(こうけい)となっています。

康慶は、東大寺南大門の金剛力士像を制作したことで知られる運慶の父であり、運慶らと一緒に力士像を彫造した快慶の師匠にあたります。

この不空羂索観音菩薩坐像を安置している場所の四方に、国宝の四天王像が安置されています。

剣を下に向けて立つ姿をしている「持国天立像」、威嚇しているような厳しい表情の「増長天立像」、口を閉じつつ遠くを見つめる「広目天立像」、宝塔を高く掲げる「多聞天立像」の4体で、静かな怒りを表現した東大寺の四天王像の仏像とは違い、豪快な雰囲気が特徴的な仏像となっています。

この他にも、国宝の法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)が安置されていましたが、この6体の像は国宝館に移動され、収蔵されています。

南円堂は10月17日に特別開扉されるだけで通常時は立ち入りの出来ない建物になっていますが、毎年10月17日に特別開扉されます。

平安時代の観音信仰において、興福寺本尊でなかったものの、子院の本尊として観音像が安置され信仰を集めていたことから、西国三十三所の第九番となり、普段から多くの人々がお参りに訪れるお堂となっています。

国宝館

国宝館は、元々僧侶が食事をする食堂(じきどう)が建っていた場所に、昭和34年に建てられた建物で、旧食堂の本尊であった千手観音菩薩像を中心として、数多くの仏像や絵画、工芸品などが収蔵されています。

内、国宝が30品目、国の重要文化財が29品目、県の指定文化財が3品目あるほか、寺宝が多数収蔵されています。

数々の仏像や寺宝を収蔵するために、屋根は本瓦葺き、建物は正面35.3m、奥行き31.8mの鉄筋コンクリート造の耐火式宝物収蔵庫となっています。

外観は、奈良時代の食堂の創建当初の姿として復元されています。

五重塔

五重塔は、興福寺を創建した藤原不比等の娘である光明皇后(701年~760年)が、730年に夫である聖武天皇の病気平癒を願い、創建されたと云われています。

730年に創建されて以降5度被災しており、1426年に6度目の再建されたものが、現在の五重塔になります。

以降、1897年12月28日に重要文化財に、1952年3月29日には国宝に指定されました。

建築様式は、三間五重塔婆(さんげんごじゅうのとうば)の木造で、室町時代に再建されたことから、室町時代の建物の雰囲気と創建当時の奈良時代の雰囲気が織り交ざった雰囲気の塔となっています。

三間五重塔婆の名前が表すように、初層(1階)の柱と柱の間は、一辺が三間(8.7m)となっています。

高さは50.1mで、国内の五重塔では、東寺に続く2番目の高さとなっています。

塔の初層と最上階層との大きさの比を表す逓減率は0.69となっており、五層目も小さすぎず大きすぎずで、とてもバランス良く見える建物となっています。

※逓減率…初層に対する最上層の幅の割合のこと。上層になるにつれ、軒の出や塔身の横幅が小さくなっていく。

心柱(しんばしら)は、相輪から初層まで一本の柱となっています。

この心柱は、本来は釈迦の墓標としての意味合いがあり、それを覆うのが五重塔の外壁だったのですが、現在では、五重塔自身が釈迦の墓標として意味合いを持つようになりました。

創建当時は、初層の四方に、各仏様の浄土世界が描かれたものが安置されていました。

東側に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、西側に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、南側に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、北側に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置したうえ、各層に水晶で作った小さな塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)と呼ばれる仏教経典の呪文が書かれた経を安置していたと云います。

その名残からも、現在でも四方に、薬師三尊像、阿弥陀三尊像、釈迦三尊像、弥勒三尊像が安置されています。

三重塔

三重塔は、1143年に時の皇太后である藤原聖子(ふじわらきよこ(1122年~1182年))、後の皇嘉門院(こうかもんいん)聖子により創建された塔です。

皇嘉門院は、白河法皇や鳥羽上皇など父親に翻弄された第75代崇徳天皇(1119年~1164年)の皇后であり、当時の摂関政治を取り仕切っていた太政大臣藤原忠通(ふじわらのただみち)の娘でした。

崇徳天皇との間に子どもはないなか、側室である兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に第一子が生まれたことにより、天皇との間で、感情的な確執が生まれたと云われています。

三重塔が創建された経緯は、歴史資料では残されていないのですが、皇嘉門院は、このような天皇との間に後継ぎが出来なかった問題もあり、また仏より加護を受けられるように祈るためや、関白家の権力誇示をかねて、三重塔の建設を命じたのではないかと推測されています。

三重塔は、1143年に創建されるも1180年の平重衡による戦火によって焼失してしまいます。
間もなく再建されているのですが、再建年の記録は残っていません。
その後、何度か修理をされるものの、再建はされていないことから、興福寺に残る最も古く再建された建物となっています。

1897年12月28日に重要文化財に、1952年3月29日には国宝に指定されました。

五重塔は室町時代の再建であったため、勇壮な室町建築であったのに対し、鎌倉時代に建てられた三重塔は、繊細な印象を与える建物となっています。

建築様式は、三間三重塔婆(さんげんさんじゅうのとうば)と呼ばれるもので、高さは19mあります。

初層には、四天柱と呼ばれる4本の柱が堂の中央部分にあり、板がX状につながっています。

この板には、東側に薬師如来、西側に阿弥陀如来、南側に釈迦如来で、北側に弥勒如来と方角毎に1,000体の仏様が描かれています。

三重塔の中には弁財天像と十五童子(じゅうごどうじ(弁財天に仕える15人の童子))像が納められています。

外観にも特徴があり、初層の屋根は、単純に出組のみで支えるシンプルな造りをしており、二重・三重部分の屋根を支える斗栱(ときょう)部分は、三手先(みてさき)と呼ばれる三段階に組まれた斗組になっています。


画像出典:日本の塔

塔の逓減率は0.851であり、初層と三層での大きさはあまり変わりませんが、。
三重塔であることから、建物自体がどっしりと構えた塔に見え、安定感のある印象になっています。

塔のてっぺんにある相輪から地面に伸びる心柱ですが、二層目までしかなく初層まで届いていません。

三重塔は普段は非公開となっていますが、毎年7月7日、弁財天供(べんざいてんく)の法要の際には一般公開されます。

仮講堂

仮講堂の由縁は、1717年に中金堂が被災したことにあります。

当時の江戸幕府、朝廷に復興させるだけの予算はなく、藤原氏からの支援・援助も叶わなかったことから、再建が叶いませんでした。

100年後の1819年に奈良の豪商と奈良町民の寄進により、周囲1間(約1.8m)を縮小した「仮の金堂」を建てることができました。

しかし、資金が出来たら本格的な金堂を建てことを見越しており、資材には松の木を利用し、瓦も焼きが甘いものを利用していたため、荒廃が早く、そのため、1975年に元々講堂のあった場所に、「仮の金堂」とは別の「仮金堂」を建てました。

この「仮金堂」は、興福寺とともに法相宗の大本山である薬師寺で、昭和43年頃より始まった伽藍再建計画により、不要になった旧金堂を譲り受け、移設したものでした。

「仮の金堂」に代わり「仮金堂」が中金堂としての役目を引継ぐことになったため、「仮の金堂」は解体されますが、2018年に「仮の金堂」があった場所に中金堂の再建を行い、「仮金堂」から中金堂の機能を移し、仮金堂の役目は終わりました。

この「仮金堂」は将来、講堂(僧侶が経典の講義や説教を行う)として利用する予定で、現在その準備を進めていることから、仮講堂と呼ばれています。

仮講堂には、1952年に国宝に指定された梵鐘や重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像・木造薬師如来坐像・木造地蔵菩薩立像・木造梵天立像仏像が保存されています。

梵鐘は口径は90.3cm、高さは149.0cmと、高さに対して口径が大きくなっています。

727年の年号や、銅とすずとの比率が刻まれ、撞座(つきざ)の位置が高く、龍頭(りゅうず)と撞座が平行に取り付けられているという奈良時代の特徴が見られます。

仮講堂には、国宝や重要文化財に指定されている仏像が安置されています。

国宝では、銅で作られた梵鐘が保管されています。

こちらには727年の年号や、銅とすずとの比率が刻まれているほか、撞座(つきざ)の位置が高く、龍頭と撞座が平行に取り付けられているという奈良時代の特徴が見られる鐘になっています。

口径は90.3cm、高さは149.0cmと、高さに対して口径が大きい特徴があります。

1902年4月17日に重要文化財に指定されて以降、1952年11月22日には、国宝に指定されています。

重要文化財としては、木造阿弥陀如来坐像・木造薬師如来坐像・木造地蔵菩薩立像・木造梵天立像の4体が安置されています。

大湯屋(おおゆや)

大湯屋は、寺院の風呂場であった建物です。

大湯屋は奈良時代からあったとされますが、詳しい創建時期はわかっていません。

奈良時代以降、何度か被災するたびに復興しており、現在の建物は使用されている部材から、五重塔再建時のものと同時期とみられ室町時代の1426年頃の再建ではと云われています。

また、1953年3月31日に重要文化財に指定されています。

正面約12m、奥行き11mの一層の建物で、東側は切妻造、西側は入母屋造となっています。

この構造より、東側には別の建物があり、大湯屋で沸かしたお湯を東側の建物に送り、蒸し風呂にしたり、入浴したりしていたのではと云われています。

(東側には別の建物があったとされるのは、入母屋の場合、三角屋根の側面部分に軒屋根が付くイメージですが、切妻の場合、側面は切り取った形になります。このことから、大湯屋の東側の屋根を、余分に張り出した構造にしていないということからの推論です。
また、現在の湯に浸かる入浴形式は江戸時代から取られていることから、現在大湯屋と呼ばれている建物で湯を沸かし、隣の建物で沐浴などしていたのではないかと推測されています。)

この大湯屋の中には床が敷かれておらず、地面に南北に二つの鉄の湯釜が据えられています。

南の湯釜は鎌倉時代製のもので、口径1.5m、胴径1.86m、高さは1.27mのサイズで、ほぼ完全形で残っています。

北の湯釜は平安時代のもので、口縁の部分しか残っておらず、こちらは口径1.44mとなっています。

本坊(ほんぼう)

本坊は、元々は菩提院北側の西方にあったものを移築したもので、興福寺の寺務を行う建物です。

表門、北客殿(きたきゃくでん)、南客殿(みなみきゃくでん)、持仏堂(大園堂)等で構成されています。

表門は、室町時代末期に建立された正面幅4.5m、奥行き2.6mの門で、本瓦葺きで四脚門(よつあしもん、しきゃくもん)と呼ばれる建築様式になっています。

北客殿は、江戸時代末期の1854年に再建された、正面20m、奥行き11mある桟瓦葺きの建物です。

平安時代から僧侶が生活し、学問に励んだ東室という東西に長い僧房の伝統を受け継いでいます。

南客殿も表門と同時期に増築された、桟瓦葺きの正面16.7m、奥行き10mの建物です。

持仏堂は、明治時代の建物で、正面7m、側面6mの桟瓦葺きの建物です。

本尊として、木造聖観音菩薩立像が安置されています。

この木造聖観音菩薩立像は、鎌倉時代に作られたものと云われており、像高87.0cmの桧で作られた像となっています。

この聖観音立像は、1902年4月17日に重要文化財に指定されています。

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菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)

菩提院大御堂は、奈良時代に玄昉(げんぼう)僧正によって創建されたという説と、この玄昉僧正の菩提を弔うことを目的として造営されたとされる説のある仏堂です。

この玄昉僧正とは、奈良時代に中国より法相宗を伝えたとされる僧侶で、東大寺の初代別当となった良弁僧正と同じ義淵(ぎえん・ぎいん)を師匠とした僧侶でした。

菩提院大御堂が創建された詳しい記録はありませんが、玄昉僧正による創建であれば、生前の746年より以前となり、菩提を弔うためであれば、746年以降になります。

創建当初は小さなお堂だった可能性があるものの、現在のような立派な仏堂になったのは、後世に玄昉を弔うことを目的に鎌倉時代に再建されたためだと云われています。

現在のお堂は、1580年に再建されたとされており、それ以降は火災など被災することなく、現在に至っています。

普段は一般公開されておらず、毎年大晦日のみ扉が開かれます。

お堂脇には、立派な鐘楼があり、その梵鐘は1436年に鋳造されたものと云われています。

過去には、日付が変わるとき、正午、早朝などに鐘が突かれており、十三鐘(じゅうさんかね)と呼ばれて親しまれてきました。

現在は、南円堂の鐘とともに、大晦日の除夜の鐘で突かれており、一般の方も参加できるようになっています。

お堂の前庭には、春日大社の鹿を誤って死なせたため死罪になった子どもである三作を弔う塚があります。

菩提院大御堂の本尊には、木造阿弥陀如来坐像が安置されており、不空羂索観音菩薩像や稚児観音立像も安置されています。

木造阿弥陀如来坐像は、平安時代から室町時代に彫造されたとされ、1924年4月15日に重要文化財に指定されています。

西金堂(さいこんどう)跡

西金堂は、734年に中金堂の西側に、聖武天皇の妃である光明皇后の発願によって創建された仏堂でした。

光明皇后の母である橘三千代の一周忌に際し、その冥福を願って創建したと云われています。
光明皇后は、橘三千代と藤原不比等の間にできた子でした。

そのため、興福寺とこの西金堂は、藤原氏の権力を世に知らしめたものだったのです。

西金堂は建立から312年後の平安時代である1046年に焼失します。

32年後の1078年に再建したのですが、その102年後の1180年に再度焼失し、2年後の1182年に再度再建します。

その後鎌倉時代末期の1327年に3度目の焼失があったものの、南北朝時代の1345年に再建します。

ですが、372年後の1717年に4度目の焼失があり、その後は、資金の問題で再建されることはなく、現在は柵で覆われた跡地に基壇を残すのみとなっています。

この基壇の間隔から、現在の東金堂とほぼ同じ大きさである正面7間(約13m)、側面4間(約4m)の建物だったのではないかと考えられており、資料などから、屋根は寄棟造(よせむねづくり)によるものだったとわかっています。

創建時は、釈迦如来像を本尊とし、薬王・薬上菩薩像、梵天・帝釈天像、十大弟子像、八部衆像、金剛力士像、四天王像などが安置されていました。

現存する仏像としては、創建当時からのものは八部衆像8体と十大弟子像のうち6体、鎌倉期に西金堂が焼失したのちに作られたものでは、本尊の釈迦如来像の頭部・両手・光背の一部、金剛力士像2体、薬王・薬上菩薩像、天灯鬼・龍灯鬼像となっています。

かの有名な興福寺の阿修羅像も、奈良時代の創建当時から残る八部衆像の仏像の1つです。
現在、薬王菩薩像・薬上菩薩像は中金堂に安置され、残りの仏像については国宝館に安置されています。

中金堂の再建は平成30年に完了しましたが、回廊や南大門の再建なども検討されており、西金堂の再建は当分難しいと云われています。

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興福寺の御朱印

興福寺では、中金堂前にある授与所と南円堂前にある授与所の2ヶ所で、別々の御朱印を授与していただけます。

御朱印は、余興福力と書かれた中金堂の御朱印や東金堂の御朱印、御詠歌が書かれる御朱印などのほか、南円堂のすぐとなりに祀られている一言観音の御朱印などがあります。

南円堂前の授与所では西国三十三ヶ所巡礼の御朱印を授与していただけます。

料金は、一律で300円。希望すればいくつでも授与していただけます。

対応していただける時間は、午前9時から午後5時までとなっています。

興福寺の拝観料・拝観時間

興福寺は奈良公園の一画にあり、寺の周囲にも堀や塀などなく門もないことから境界がありません。
そのため、24時間好きな時に出入りすることができます。

ですが、内部拝観の可能な中金堂・東金堂・国宝館は、拝観料金が必要で、拝観できる時間は、午前9時から午後5時まで(年中無休)です。

なお、入館締め切りは午後4時45分です。

興福寺へのアクセス

興福寺へのアクセスは、JR大和路線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅を拠点とし、徒歩・タクシー・奈良交通路線バスで行くか、興福寺(国宝館)専用駐車場にマイカーを駐車するかになります。

徒歩だと、JR奈良駅からは18分、近鉄奈良駅からは8分程度。

奈良駅から奈良交通のバスを利用する場合、市内循環の外回りを利用し、バス停「県庁前」で下車します。
JR奈良駅から約5分、近鉄奈良駅から約1分。

マイカーを停める専用駐車場は、普通車46台、バス16台まで駐車できます。
利用時間は午前9時から午後5時までで、1000円です。

ここを拠点に東大寺や春日大社の参拝も可能ですが、興福寺駐車場の営業時間が終わると、門が閉じられてしまい、出庫できなくなるので注意が必要です。

近隣の駐車場を利用する場合は、興福寺を通り過ぎ東大寺周辺エリアに入ると、通行禁止ゾーンがあります。

東大寺に近づけば、駐車場がなくUターンしなくてはならない場合がありますので、事前に駐車場の場所を確認しておいた方がいいでしょう。

おわりに

奈良公園の一画にあり、藤原氏の繁栄を象徴する興福寺ですが、その伽藍には数多くの歴史があります。

大きな繁栄から廃寺寸前までという紆余曲折の歴史を、足を運び、感じてみてはいかがでしょうか。

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