興福寺の歴史と国宝館、東金堂、南円堂、中金堂、北円堂、五重塔など見どころご紹介

興福寺の歴史と見どころについて

興福寺は、南都六宗の一つである法相宗(ほっそうしゅう)の大本山であるお寺です。

寺の歴史は非常に古く、飛鳥時代にまで遡ります。

大化の改新を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ(のちの天智天皇))とともに成し遂げた中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が、669年に重い病気にかかり、鎌足の夫人である鏡女王(かがみのおおきみ)が鎌足の回復を祈願し、釈迦三尊像や四天王像などの諸仏を安置するために造営したのが始まりとして伝えられています。

興福寺を含む地域一帯は、1998年12月、『古都奈良の文化財の一部』として、ユネスコより世界遺産に登録されています。

ここでは興福寺の歴史を紐解き、国宝館、東金堂、南円堂、中金堂、北円堂、五重塔など興福寺の見どころについて紹介します。

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興福寺の歴史

興福寺の前々身は、中臣鎌足の妻であった鏡女王が669年に病気になった夫、中臣鎌足の回復を祈願し近江で建立した山階寺(やましなでら)です。

鎌足は、鏡女王の願い届かず、同年10月16日に亡くなりますが、この際に、第38代天智天皇として即位していた中大兄皇子より、鎌足は藤原氏という性を賜り、以降息子である藤原不比等より藤原性を名乗ることになりました。

天智天皇崩御後、672年の壬申の乱(じんしんのらん)を経て弟の天武天皇が即位すると、都を近江から飛鳥に戻します。

その際に、藤原不比等によって山階寺も飛鳥に移設され、移設先の地名をとり、厩坂寺(うまやさかでら)に改称されました。

これが、興福寺の前身のお寺になります。

その後、第43代元明天皇の時代に平城京遷都が行われ、その際に厩坂寺も平城京へ移設され、その際に、興福寺として再度改称されました。

平城京に移されたのち、天皇や皇后、藤原氏の人々により、次々と建物が整備されていきます。

奈良時代には四大寺(しだいじ)に数えられるほど大きくなり、平安時代には南都七大寺に数えられるほどになりました。

※四大寺…朝廷の尊崇の厚かった4つの寺院。奈良時代では薬師寺、元興寺、興福寺、大安寺。
 南都七大寺…奈良時代に平城京及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の7つの大寺。
出典:Wikipedia

これには、藤原不比等以降の藤原摂関家の力が大きく影響しており、平安時代には春日神社の実権までも握ってしまうほどの力を手に入れ、大和の国を領するほどになります。

鎌倉・室町時代では、幕府は大和国に守護を設置せず、興福寺がその任務を行うほどでした。

江戸時代にも、その地位は江戸幕府より所領という形で保障されていました。

ですが、明治に入り神仏分離の影響で、寺の力はそぎ落とされてしまいます。

一時期、興福寺の五重塔の売却などの噂も立つようになっていました。

明治8年から明治15年までは西大寺の佐伯住職により管理されていました。

その中で、明治14年に寺号の復号許可を申請し、明治15年に管理権が興福寺に戻されました。

それから、紆余曲折があったものの、国宝館の建設や各伽藍の修理などを経て、平成時代末には中金堂を復興させ、今日に至っています。

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興福寺の建物とその歴史

興福寺の伽藍は、奈良時代に創建されて以降、数々の火災などを被災し、焼失した歴史があります。

また、伽藍の建物も、長い歴史の中で、色々な人によって発願され作られています。

それぞれの伽藍の歴史や、祭られている仏像について説明します。

東金堂(とうこんどう)

東金堂は、726年に第45代聖武天皇によって創建された建物です。

聖武天皇は、叔母である先代の元正太上天皇(げんしょうだじょうてんのう)の病気全快を祈願して、東金堂を創建しました。

726年の創建以降、1180年の南都焼討の兵火で焼失、その後も1411年にも五重塔とともに焼失するなど、過去5度も焼失しており、その都度再建されてきました。

現在の建物は、1415年に再建された室町時代の建物となっています。

1897年12月28日に重要文化財に指定されており、1952年3月29日には国宝に指定されました。

その姿は室町時代の再建であるものの、天平様式(てんぴょうようしき)で作られており、唐招提寺の金堂とも近似した造りになっています。

正面は25.6m、奥行きは14.1mで、寄棟造りの本瓦葺きの建物となっています。

本尊には、薬師三尊像が安置されており、本尊の薬師如来坐像(高さは255.0cm)と脇侍(わきじ)の日光菩薩立像(高さ300.3cm)と月光菩薩立像(298.0cm)で組み合わされ、ともに重要文化財に指定されています。

薬師如来坐像は、元々は飛鳥時代に山田寺の講堂に祀られていたものでしたが、興福寺の僧兵が強引に東金堂に運びこんだものだと伝わっています。

この薬師如来坐像は、1411年の火災で焼失しており、室町時代に再興されたものが現存のもので、1411年の火災までの本尊は、仏頭だけが現存しており、国宝に指定されています。

三尊像以外でも、東金堂には、国宝に指定されている仏像が多く安置されています。

1196年に制作されている維摩居士(ゆいまこじ)坐像は1952年3月29日に国宝指定された鎌倉時代の仏像で、木造で定慶(じょうけい(12世紀後半の仏師))作と伝わっています。

維摩居士とは、釈迦の弟子のひとりで、在家で弟子になったと伝わっている人物であり、特に興福寺に直接関与した僧侶ではありません。

その他にも、文殊菩薩坐像、四天王立像、十二神将(じゅうにしんしょう)立像、正了知大将(しょうりょうちだいしょう)立像が安置されています。

東金堂は、一般公開されているため、これらの仏像は、いつでも拝観できます。

中金堂(ちゅうこんどう)

中金堂は、714年に藤原不比等の発願で作られた、興福寺伽藍の中心的な仏堂です。

本尊には、1811年に彫造された釈迦如来坐像が安置されており、周囲には、国宝に指定されている四天王像が安置されています。

他の伽藍、平重衡の焼討をはじめ、戦災や火災などで7回焼失しています。

最後に被災した1717年の火災までは、その都度再建されてきました。

しかし、この火災以降は、資金面の問題もあり再建されることがなく、100年後に仮堂を作り近年まではその仮堂でしのいできました。

1989年に法相宗の総本山である興福寺住職である貫首(かんじゅ)に就任した多川貫首が、中金堂の再建を発願し、98年の発掘調査以降20年の歳月を経て、2018年に301年ぶりに再建させました。

天平様式の建物として復元された中金堂は、東西に正面37m、奥行きが23m、高さ21mあり、奈良県内では、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物となっています。

北円堂(ほくえんどう)

北円堂は、721年に中金堂の北西側に、元明太上天皇と第44代元正天皇(げんしょうてんのう)によって創建された仏堂です。

元正天皇から「長屋王」に勅命を出し、藤原不比等の1周忌に際して、その冥福を願って創建したと云われています。

平城京遷都に力を注いだ藤原不比等が、平城京を見守ることができるようにと、この位置が選ばれました。

創建後、平安時代末期にあたる1180年に一度焼失し、その後1210年頃に再建され現在に至っています。

そのため、興福寺の伽藍内で、三重塔と並ぶ最も古い建物となっています。

1897年12月28日には重要文化財に指定されており、1952年3月29日には国宝に指定されました。

形状は、菩提を弔うのに建てられていた八角堂であり、その一面は4.9mとなっています。本瓦葺きの建物となっており、鎌倉時代の再建物でありながらも、奈良時代創建当時の姿をよく残していると云われています。

本尊は、国宝に指定されている弥勒如来坐像が安置されており、両脇に法苑林(ほうおうりん)菩薩像・大妙相(だいみょうそう)菩薩像が安置されています。

その背後に、同じく国宝である世親菩薩立像と無著菩薩立像が安置されており、それを四方より国宝の四天王立像が囲むように安置されています。

このうち、本尊の弥勒菩薩坐像と世親菩薩立像、無著菩薩立像については、鎌倉時代に運慶によって彫造されたものとなっています。

弥勒菩薩像は、1.5mほどの高さとなっており、造立された当時の美しい姿を今にとどめています。

1951年6月9日に国宝として指定されています。

四天王像は平安時代の彫造仏で、791年に造立されたと云われています。

高さは1.3m~1.4mとなっており、興福寺に安置されている仏像の中では最も古い仏像になります。

こちらは、弥勒菩薩像より後の1956年6月28日に国宝指定を受けています。

弥勒菩薩像の脇侍である法苑林菩薩像・大妙相菩薩像は、室町時代に彫造された、北円堂に安置されている仏像の中では、歴史の新しい仏像になります。

北円堂は、春と秋の年に2回特別公開され、その際に仏像を拝観することが可能になっています。

南円堂(なんえんどう)

南円堂は、813年に藤原冬嗣の発願によって創建された仏堂です。

藤原冬嗣は、藤原北家の4代目に当たり、父である藤原内麻呂の冥福を願って創建したと云われる八角堂です。

南円堂は、これまでに平重衡の南都焼討など、3度被災して焼失しており、現在の南円堂は、4代目に当たる建物で、1789年に再建されたものになります。

その建物の材料には平安初期の材料などが残っているわけではありませんが、江戸時代に再建された建築物であるにも関わらず、その雰囲気はかなり古い時代を思わせる建物となっており、八角堂としての規模は、日本国内で最大級の大きさをほこります。

1986年12月20日には、国の重要文化財に指定されています。

創建時には、地神を鎮めるため、石造りの基壇を建設する際に、「和同開珎」や「隆平永宝(りゅうへいえいほう)」など、当時のお金を地面に撒きながら建設を進めたというエピソードが残っており、そのことが発掘調査の結果から明らかになっています。

この地鎮の儀式には、真言宗の開祖である空海が深く関わっており、設計自体にも関わっていたと云われ、建造は空海主導で行われました。

法相宗である興福寺の中でも、特に真言宗との関わりの深い特殊な位置付けの仏堂にもなっています。

南円堂の本尊には、国宝の不空羂索観音菩薩坐像(ふくうけんさくかんのんぼさつざぞう)が安置されています。

この像は、鎌倉時代に彫造されており、作者は康慶(こうけい)となっています。

康慶は、東大寺南大門の金剛力士像を制作したことで知られる運慶の父であり、運慶らと一緒に力士像を彫造した快慶の師匠にあたります。

この不空羂索観音菩薩坐像を安置している場所の四方に、こちらも国宝である四天王像が安置されています。

剣を下に向けて立つ姿をしている「持国天立像」、威嚇しているような厳しい表情の「増長天立像」、口を閉じつつ遠くを見つめる「広目天立像」、宝塔を高く掲げる「多聞天立像」の4体で、東大寺の四天王像のような、静かな怒りを表現した仏像とは違った豪快な雰囲気が特徴的な仏像となっています。

この他にも、国宝の法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)が安置されていましたが、この6体の像は国宝館に移動され、収蔵されています。

通常時は立ち入りの出来ない建物になっていますが、毎年10月17日に特別開扉されます。

西国三十三所の第九番となっていることもあり、普段から多くの人々がお参りに訪れるお堂となっています。

国宝館

国宝館は、元々僧侶が食事をする食堂(じきどう)が建っていた場所に、昭和34年に建てられた建物です。

数々の仏像や寺宝を収蔵するために、鉄筋コンクリート造の耐火式宝物収蔵庫となっています。

正面は35.3m、奥行きは31.8mあり、本瓦葺きの建物になっています。

その外観は、奈良時代の食堂の創建当初の姿として復元されています。

旧食堂の本尊であった千手観音菩薩像を中心として、数多くの仏像や絵画、工芸品などが収蔵されています。

内、国宝が30品目、国の重要文化財が29品目、県の指定文化財が3品目あるほか、寺宝が多数収蔵されています。

五重塔

五重塔は、730年に光明皇后の発願によって創建された塔です。

光明皇后は、東大寺を建立し大仏を作り、全国に国分寺を創建されるなど仏教信仰に篤かった聖武天皇の后であり、興福寺を創建した藤原不比等の娘でした。

聖武天皇は726年に東金堂を建立した後、病気になります。

その病気平癒を祈願し、建立されたと云われています。

五重塔は、730年に創建されて以降5度被災しており、1426年に6度目の再建されたものが、現在の五重塔になります。

以降、1897年12月28日に重要文化財に指定され、1952年3月29日には国宝に指定されました。

建築様式は、三間五重塔婆(さんげんごじゅうのとうば)の木造で、室町時代に再建されたことから、室町時代の建物の雰囲気と創建当時の奈良時代の雰囲気が織り交ざった雰囲気の塔となっています。

この様式の名前が表すように、初層の柱と柱の間は、一辺が三間であり、8.7mとなっています。

高さは50.1mとなっており、国内の五重塔では、東寺に続く2番目の高さとなっています。

また、その歴史においては法隆寺、醍醐寺についで3番目の歴史ある建物です。

塔の初層と最上階層との大きさの比を表す扁平率は0.69となっており、五層目も小さすぎず大きすぎずで、とてもバランス良く見える建物となっています。

心柱は、相輪から初層まで一本の柱となっています。

特に興福寺の五重塔の心柱は、大日如来の象徴と崇められています。

この心柱は、本来は釈迦の墓標としての意味合いがあり、それを覆うのが五重塔の外壁だったのですが、現在では、五重塔自身が釈迦の墓標として意味合いを持つようになりました。

創建当時は、初層の四方に、各仏様の浄土世界が描かれたものが安置されていました。

東側に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、西側に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、南側に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、北側に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置したうえ、各層に水晶で作った小さな塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)と呼ばれる仏教経典の呪文が書かれた経を安置していたと云います。

その名残からも、現在でも四方に、薬師三尊像、阿弥陀三尊像、釈迦三尊像、弥勒三尊像が安置されています。

三重塔

三重塔は、1143年に時の皇太后である藤原聖子、後の皇嘉門院(こうかもんいん)聖子により創建された塔です。

皇嘉門院は、白河法王や鳥羽上皇など父親に翻弄された第75代崇徳天皇の中宮であり、当時の摂関政治を取り仕切っていた太政大臣藤原忠通の娘でした。

崇徳天皇との間に子どもはないなか、側室である兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に第一子が生まれたことにより、天皇との間で、感情的な確執が生まれたと云われています。

このような後継ぎ問題の背景もあり、仏の加護を祈るためや、関白家の権力誇示をかねて建設を命じたのではないかと考えられています。

三重塔は、1143年に創建されるも1180年の平重衡による戦火によって焼失してしまいます。

間もなく再建されているのですが、再建年の記録は残っていません。

その後、何度か修理をされるものの、再建はされていないことから、興福寺に残る最古の建物の1つとなっています。

1897年12月28日に重要文化財に指定されており、1952年3月29日には国宝に指定されました。

先に紹介した五重塔は室町時代の再建であったため、勇壮な室町建築であったのに対し、鎌倉時代に建てられた三重塔は、繊細な印象を与える建物となっています。

建築様式は、三間三重塔婆(さんげんさんじゅうのとうば)と呼ばれるもので、高さは19mあります。

外観に特徴があり、初重の屋根は、単純に出組のみで支えるシンプルな造りをしており、二重・三重部分の屋根を支える斗栱(ときょう)部分は、三手先(みてさき)と呼ばれる三段階に組まれた斗組になっています。
塔の逓減率は0.851であり、初層と三層での大きさはあまり変わりません。

三重塔であることからも、建物自体がどっしりと構えた塔に見え、安定感のある印象になっています。

また、塔のてっぺんにある相輪から地面に伸びる心柱ですが、初層まで貫いておらず、二層目までしか存在していません。

この構造は、平安期に建設されている塔よりも、鎌倉時代に盛んに建立された塔の構造に近いことから、鎌倉建設である興福寺三重塔の特徴の1つだといえます。

この三重塔の初層には、堂の中央部分に4本の柱があります。

この柱を四天柱と呼ぶのですが、この柱をX状に板がつながっています。

この板には、方角毎に1,000体の仏様が描かれています。

東側には薬師如来、西側には阿弥陀如来、南側は釈迦如来で、北側には弥勒如来が描かれているのです。

そして、この三重塔の内部には弁財天像と十五童子像が納められています。

通常、三重塔は非公開となっていますが、毎年7月7日、弁財天供(べんざいてんく)の法要の際に一般公開されます。

この弁財天像は、元々三重塔に納められていた仏像ではなく、興福寺の塔頭の一つである世尊院より移されたものとなっています。

仮講堂

仮講堂は、中金堂の北側にある建物です。

この建物の由縁は、1717年に中金堂が被災したことがきっかけとなっています。

当時の江戸幕府、朝廷に復興させるだけの予算はなく、藤原氏からの支援・援助も叶わなかったことから、再建が叶いませんでした。

それから100年後の1819年に奈良の豪商と奈良町民の寄進により、周囲1間を縮小した仮の金堂を建てることができました。

資金が出来たら本格的な金堂を建てるのを見越しての建立だったことが見受けられ、その資材には松の木が利用されており、瓦も焼きが甘いものが利用されていました。

そのため、荒廃が進むのが早く、1975年に元々講堂のあった場所に、仮金堂を建てました。

この仮金堂は、不要になった薬師寺の旧金堂を移設したものでした。

薬師寺の旧金堂は、室町時代に建てられた正面26.7m、奥行き15.6m、寄棟造りの本瓦葺の建物です。

こちらが出来ると、中金堂としての役目を引継ぐことになり、それまでの仮の金堂は解体されました。

その場所に、新たに中金堂の再建を行い、2018年の完成後に中金堂の機能を移し、仮金堂の役目は終わりました。

今後、この仮金堂は講堂として新たな役目を持つようになり、その準備を進めていることから、仮講堂と呼ばれているのです。

この仮講堂の中には、国宝や重要文化財に指定されている仏像が安置されています。

国宝では、銅で作られた梵鐘が保管されています。

こちらには727年の年号や、銅とすずとの比率が刻まれているほか、撞座(つきざ)の位置が高く、龍頭と撞座が平行に取り付けられているという奈良時代の特徴が見られる鐘になっています。

口径は90.3cm、高さは149.0cmと、高さに対して口径が大きい特徴があります。

1902年4月17日に重要文化財に指定されて以降、1952年11月22日には、国宝に指定されています。

重要文化財としては、木造阿弥陀如来坐像・木造薬師如来坐像・木造地蔵菩薩立像・木造梵天立像の4体が安置されています。

大湯屋(おおゆや)

大湯屋は、五重塔東側に建つ寺院の風呂場であった建物です。

この建物は奈良時代からあったものとされますが、詳しい創建時期はわかっていません。

奈良時代以降、何度か被災するたびに復興しており、現在の建物は室町時代に再建されたのとなっており、1953年3月31日に重要文化財に指定されています。

使用されている部材から、五重塔再建時のものと同時期とみられ、1426年頃の再建ではと云われています。

桁行四間、梁間四間の一層の建物で、東側は切妻造、西側は入母屋造となっています。

この構造より、東側には別の建物があり、大湯屋で沸かしたお湯を東側の建物に送り、蒸し風呂にしたり、入浴したりしていたのではと云われています。

この大湯屋の中には床が敷かれておらず、地面に南北に二つの鉄の湯釜が据えられています。

南の湯釜は鎌倉時代製のもので、口径1.5m、胴径1.86m、高さは1.27mのサイズで、ほぼ完全形で残っています。

北の湯釜は平安時代のもので、口縁の部分しか残っておらず、こちらは口径1.44mとなっています。

本坊

本坊は、興福寺の寺務を行う建物です。

表門・北客殿・南客殿・持仏堂(大園堂)等で構成されています。

まず表門については、室町時代末期に建立された正面幅4.5m、奥行き2.6mの門となっています。

本瓦葺きで四脚門と呼ばれる建築様式になっています。

元々は菩提院北側の西方にあったものを移築したものとなっています。

南客殿も表門と同時期に増築された、正面16.7m、奥行き10mの建物です。

桟瓦葺きの建物になっています。

北客殿は、江戸時代末期の1854年に再建された建物です。

正面20m、奥行き11mある桟瓦葺きの建物になっています。

平安時代から僧侶が生活し、学問に励んだ東室という東西に長い僧房の伝統を受け継いだ施設となっています。

そして、北側に位置する持仏堂は、明治時代の建物で、正面7m、側面6mの桟瓦葺きの建物です。

この持仏堂には本尊として、木造聖観音菩薩立像が安置されています。

この木造聖観音菩薩立像は、鎌倉時代に作られたものと云われており、像高87.0cmの桧で作られた像となっています。

像内納入の文書では、本来は弥勒菩薩像として彫造され、1253年に仏師の快円によって作られたと記載されています。

ですが、寺伝に従い、聖観音像とされており、今に伝わっているのです。

この聖観音立像は、1902年4月17日に重要文化財に指定されています。

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