上杉謙信 義の心

上杉謙信 義の心を重んじる生涯

戦国時代、あの織田信長さえ恐れた武将が「越後の虎」こと上杉謙信でした。戦国最強の武将ともいわれ「軍神」「越後の龍」などとも呼ばれています。上杉の名は上杉家の養子になったときから、謙信の名は晩年に名乗った名前で、戦国大名として活躍していた時期には、長尾景虎、上杉政虎などと名乗っていました。

ここでは謙信で統一して話を進めたいと思います。

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享禄3年(1530年)、謙信は越後国の長尾家に生まれます。越後国は現在の新潟県、上越市の中部にある春日山城が拠点でした。当時の長尾氏は上杉氏に仕える身分であり、上杉氏は幕府から関東管領(かんとうかんれい)という役職を賜り関東の平定に尽くしていた時代です。

長尾氏と上杉氏の関係は緊密でしたが、必ずしも平和的なことばかりではありません。越後で上杉氏の家臣である黒田秀忠が謀反を起こしたことがありました。謙信の兄・晴景は当主でしたが病弱で、早くから謙信が領内の謀反を収めたり、上杉氏家臣の謀反にも対処することになります。

すると、長尾氏の家臣の中でも「病弱な晴影より、戦いの才能のある弟の謙信のほうが当主に向いているのではないか」という派閥と「晴影が正当な後継者だ」という派閥が、それぞれ二人を担ぎ上げました。

こうしたことから家督の相続を巡り謙信は図らずも兄の晴景と対立することになります。家臣たちが二人を担ぎ上げて家督争いを起こしたのです。しかし、最終的には謙信が晴景の養子となることで両者の面目が立ち、19歳の若さで家督を相続します。

その2年後には、越後国を治めていた上杉定実が死去したために謙信が越後の国主となりました。しかし、その後も一族内での反乱が続き、天文19年(1550年)に越後統一を成し遂げます。謙信、22歳のことでした。

天文21年(1552年)、関東管領を務めていた上杉憲政が、相模国(神奈川県)の北条氏康に戦で破れ、上野国(群馬県)を追われて越後に逃げてきました。上杉憲政は謙信に助けを求め、謙信はこれに応じて関東への出兵を決めます。関東管領は将軍に任命される役職のため、関東を追われたとなったら一大事です。

上杉軍が北条軍を撃退したのも束の間、次は甲斐(山梨県)の武田信玄が信濃(長野県)に攻め込んだことから、信濃守護・小笠原氏や村上氏から援軍を要請されます。謙信は軍を派遣して武田軍を破りますが、武田軍も信濃の地をなかなか諦めません。

天文22年(1553年)7月に再び大軍を率いて信濃に侵攻したことで、謙信も自ら信濃に出陣し、川中島一帯での戦いに勝利します。これがその後5回に渡って繰り広げられる「川中島の戦い」の始まりでした。信濃国は完全に他の戦国大名の領土で、そこで勝利したなら領地の一部を手に入れることもできましたが、謙信は何も得ずに越後へと帰ります。

このように、上杉謙信とは領土拡大の欲を持たず、助けを請う者が来れば拒まない戦国大名でした。

しかし、その性格が災いしたのか、謙信の人生は戦いの日々となります。

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天文23年(1554年)、家臣の北条高広が謀反を犯すとこれを鎮圧しますが、北条は謙信に許されます。天文24年(1555年)には、またしても甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻してきたために第二次川中島の戦いに挑み、和睦によって川中島を取り戻しました。

そのような日々に疲れていたのでしょう。謙信は、弘治2年(1556年)3月、隠居をして出家すると言い出しますが、家臣たちの説得によりこれを思いとどまりました。しかし、そうなるとまたもや戦いの日々。第三次川中島の戦いなど目まぐるしい人生が続きます。

そのような中、永禄2年(1559年)5月、2度目の上洛を果たした謙信は、正親町(おおぎまち)天皇、将軍・足利義輝と謁見し、義輝からは管領並の待遇を与えられます。つまり、幕府を補佐して、無用な戦を鎮める役を申し渡されたのです。

当時、川中島を繰り返し狙っては軍を派遣してくる武田信玄と、関東の覇権を狙う相模国の北条氏、そして、駿河国(静岡県)の今川氏は「甲相駿三国同盟」を結んでいましたが、その今川氏が永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで織田信長に敗れます。

その機会を見逃さなかった謙信は、越後から相模の小田原まで兵を進め、小田原城を包囲します。しかし、小田原城は堅牢で北条氏康が篭城戦に入ったために攻め落とすことができずにあと一歩というところで兵を退きました。なぜなら、北条氏と戦っている隙に、またしても武田信玄が川中島に向けて兵を出す動きを見せていたためです。

やがて謙信は、正式に上杉家の家督を相続し、関東管領の職も譲り受け、名前も上杉政虎と改めました。長尾晴景の養子から上杉憲政の養子へとなったのです。

関東管領を相続したあとは17回に渡り関東へ兵を送り、武田氏や北条氏、またはその武将たちと激しい戦いを繰り返しますが、例え勝ったとしても領地は元の領主に返すだけでした。

こうした戦いの相手はやがて、織田信長に代わり、これを打ち破るも、天正6年(1578年)3月、49歳にして謙信は急死してしまいます。しかし、後継者を決めていなかったため、その後は家督争いが起きました。

二人の養子による争いでしたが敗れた上杉景虎は、北条氏康の子で、人質として甲斐の武田氏を経て上杉氏へやってきました。謙信はその子を大いに気に入り、自らの幼名である「景虎」の名を継がせたといいます。この戦いはもう一人の養子である上杉景勝の勝利に終わりましたが、以降、上杉家では人を財産とする謙信の考えが残されたのです。

謙信は領地を得る代わりに多くの人々の信頼を得ることになりました。助けた武将はもちろん、その信頼は敵として戦った大名たちからも得ています。

北条氏康は「上杉謙信が一度請け負ったら、骨になっても義理は通す」と評し、武田信玄も死の間際には、息子の勝頼に「いざとなれば上杉謙信を頼れ。謙信に頼めば嫌とはいわない」と言い残したほどでした。

非情な戦国の世において、上杉謙信が貫いた義の心は、多くの人々を魅了したのです。

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