明智光秀ゆかりの地~京都・滋賀・岐阜

京都・滋賀・岐阜 明智光秀ゆかりの地~本能寺、坂本城、聖衆来迎寺、比叡山延暦寺、安土城、丹波亀山城など

「明智光秀」と聞くと誰もがまず真っ先に思い浮かべるのが「本能寺の変」だと思います。

織田信長を討った謀反人。その一点が強く印象に残っている方が多いかもしれません。

天下統一を目前にした織田信長を謀反により葬った裏切り者。そんなネガティブな悪者イメージが植えつけられているのが現状のようです。

何をしたどんな人なのか、どんな活躍をした人なのか、などはほとんど知られておらず、ただ謀反人として覚えられてしまっています。

明智光秀は今で言う中途採用として信長に仕えた新参者でありながら織田軍団の出世頭としてトップに立ち、信長の絶大な信頼を受けていました。

日本という国のあり方、天皇や将軍、公家、宗教への深い理解など、当時としてはあまりに高度な知性と感性を持っていたと思われます。

そして誠実な人柄は家臣にも伝わり「本能寺の変」の後に光秀が窮地に陥った時、誰ひとりとして光秀を裏切る家臣はいなかったと言います。

「明智光秀は裏切り者」という先入観をまず一度無くしてみて、ひとりの人間としての部分を探っていけたらと思います。

そこで、ここでは明智光秀の歴史を紹介するとともに京都・滋賀・岐阜ゆかりの地を紹介していきます。

本来は明智光秀の生い立ちから順に紹介するべきなのでしょうが、明智光秀と言えばやはりまず「本能寺」から見ていきたいと思います。

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現在の本能寺

現在の本能寺には災禍の中、先人たちが命を賭けて守り抜いた信長ゆかりの品々がたくさん宝物館にて展示公開されています。

中には明智光秀が本能寺に向かい迫りつつあった前日に突然鳴き出して異変を伝えたとの伝説が残る香炉「三足の蛙(みつあしのかえる)」もありますので必見です。

現在の本能寺は京都市中京区寺町通リにあります。地下鉄東西線で京都市役所前駅で降り歩いて数分でたどり着きます。

賑やかな商店街の中に突然現れるので初めて行った時は少し驚きました。

現在の本能寺

さて、上に「現在の本能寺」という書き方をしましたがお気づきでしょうか。

実は現在の本能寺は信長が討たれた当時とは場所が違うのです。今とは全く違う場所に本能寺はありました。

当時はもっと規模も大きく堀や壁に囲まれた城塞のような堅固な寺で簡単に落ちるものではなかったそうです。

本能寺を紹介する前に、もしかすると中には「本能寺の変って何?」という方がいるかもしれません。

名前は聞いたことあるけど結局は何が起きたの?と詳細までは知らない方もいるかもしれません。

そこで簡単に「本能寺の変」についてまず解説してみたいと思います。

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本能寺の変

「本能寺の変」とは、織田信長の家臣である明智光秀が主君である信長が宿泊していた「本能寺」を不意に襲い自害に追いやった謀反のことです。

天正10年6月2日、毛利氏が治める中国地方を統一するため現在の岡山県にある備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉を救援するため信長は京都にいました。

出陣を前に本能寺に宿泊した信長は天下統一を目前にして警戒を怠ったのか、警備をわずか100人あまりしか置かないという手薄な状態でした。

京都周辺はすでに敵もおらず天下に王手をかけた現状に油断が生じたのかもしれません。

信長の命令により同じく備中攻めの秀吉を救援するべく向かうはずだった明智光秀は丹波亀山城から中国地方とは逆方向である京都に全軍を進めました。

軍勢の数は明らかにはなっていませんが、おそらく1万3000人はいたと言われる明智軍が信長が宿泊する本能寺を闇に乗じて襲撃したのです。

有名な台詞「敵は本能寺にあり」と言い放ち全軍で襲い掛かります。寝所で休む信長のもとへ慌てた森蘭丸が駆けつけ明智の謀反を伝えると「是非もなし」と言った信長が弓や槍を取って応戦するという場面は何度となくテレビやメディアに登場してきます。

散々奮闘した挙句、信長が好んだ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の節で有名な「敦盛」を舞い、焼け崩れる炎の中で切腹して果てる。

多くの方がドラマや映画などで目にしたと思われる儚くも美しい名シーン。これが今も語り継がれ色褪せることのない大事件「本能寺の変」というわけです。

それを踏まえて織田信長が討たれた実際の場所、戦国時代当時の「本能寺」に行ってみましょう。

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旧本能寺跡

阪急烏丸駅で降りて四条通りを大宮方面に歩いて数分の場所に「旧本能寺跡」はあります。

何気ない細い道路の一角に石碑だけがひっそりと立ち、さらに奥に進むとちょっと豪華な石碑も見つけることが出来ます。

まさにここで明智軍が信長を取り囲み、天下統一を目前にして自害に追いやったその場所だと思うと複雑な気持ちになり感慨深いです。

ぐるりと歩きながら散策すると敷地跡には老人ホームや高校などが建っており、その敷地面積の大きさに驚かされます。
本能寺を取り囲む明智軍と弓や槍を取り奮闘する信長の姿を妄想しながら想いにふけって散策することが出来ます。

旧本能寺跡

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明智光秀の出身・出自

明智光秀を語るにはどうしても「本能寺の変」は避けられないところですが、幼少期や青年期はどうだったのでしょうか。

これが実は残念なことに詳細は分かっていないそうです。

現在の岐阜県にある明智城で明智光綱の子として生まれ、11歳で城主となり斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしたと考えられています。

そして光秀は岐阜を離れ越前の朝倉義景を頼って仕えたと言われています。朝倉家に身を寄せていた足利義昭を上洛させる目的があったようです。

光秀が史料に初めて登場するのが足利義昭を上洛させる際に信長と足利義昭を仲介する役としてでした。

将軍や公家など高貴な方へ応対できる所作や振る舞いなどの知識を信長に認められ足利義昭と織田家の両属の家臣となります。

京都を中心とした数多くの戦に参戦し比叡山の焼き討ちなども実行し武功を上げた光秀はついに近江の滋賀郡に約5万石の領地を与えられ異例のスピードで出世していきます。

坂本城

坂本城の築城にとりかかり、このあたりから足利義昭を見限り、織田家の家臣に編入されたとみられています。

坂本城が完成し城主となった光秀はさらに活躍の場を広げていくのですが、この坂本の地は光秀の史跡が多く残っていますのでいくつか紹介しておきましょう。

近江国、今の滋賀県大津市の琵琶湖の湖畔に坂本城はありました。比叡山焼き討ちの後に光秀が築いた城です。

滋賀県大津市の坂本は石積みの門前町として知られ比叡山延暦寺や日吉大社と石垣職人を生んだ穴太衆(あのうしゅう)の町です。

※穴太衆とは安土桃山時代に城郭などの石垣の施工を行った石の技術集団。

穴太衆積みの石垣

JR比叡山坂本駅から琵琶湖の方に向かうと湖畔に坂本城跡があります。比叡山焼き討ちの後に監視目的で信長が光秀に命じて築かせたのが坂本城でした。

比叡山は1570年、姉川の戦いで敗北した浅井朝倉勢に味方した為に織田信長と敵対し焼き討ちに合い全山が焼失したといわれます。

高い石垣などはなく寺町に川の流れを利用した堀を設けたような自然を利用した縄張りになっており、今は堀は埋め立てられているようです。

坂本城は小天守を備えた連立式天守とされており、宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で「安土城に次ぐ豪壮華麗な城」とつづっています。

坂本城の石垣

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坂本城跡・坂本城址公園

琵琶湖の近くを走る道路沿いに大きな坂本城址の碑が建つ「坂本城址公園」があります。ちょこんと建っている光秀の銅像はどこか愛嬌のあるゆるキャラのような雰囲気です。謀反人の面影はなく優しげな表情が印象的でした。

そこから見える琵琶湖や対岸の景色、比叡山の山並みは光秀が眺めていた景色と同じだと思うと感慨深いです。

坂本城址公園

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明智塚

光秀像から少し北に歩くと本丸跡や石垣遺構もあります。そのすぐ近くに「明智塚」があります。

ここは光秀の墓だから触ると祟られるとの言い伝えがあるそうで発掘調査もされておらず地元の人により丁寧に守られてきたそうです。

明智塚には亡くなった将兵らと共に光秀の愛刀が収められていると伝わっています。

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)

明智塚から西近江路を北に20分ほど歩いたところに「聖衆来迎寺」があります。

この寺の表門は、坂本城から移築された明智時代の城門とのことなので併せて見ておきたいです。

聖衆来迎寺表門

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西教寺

坂本城跡から少し離れた場所に明智一族の菩提寺で光秀の妻らの墓がある「西教寺」もあります。

西教寺の梵鐘は平安時代に作られたもので明智光秀の寄進と言われているそうです。

本堂近くに明智一族のお墓と供養塔があるのですが汚名一族の墓はどこか悲しみをさそいます。

光秀の妻、煕子(ひろこ)の墓だけがぽつんと一人離れたところにあるのが印象的でした。

比叡山延暦寺

そして坂本城から焼き討ちのあった比叡山延暦寺へ向かいましょう。坂本ケーブルを使ってすぐに行くことができます。

延暦寺の根本中堂は最大の仏堂であり総本堂となります。本尊は薬師如来で、ご本尊の前には1200年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。

建物は国宝に指定されており、廻廊は重要文化財に指定されていますので観光スポットとしても大変有名となっているので坂本城から比叡山に登るのも良いでしょう。

比叡山延暦寺 根本中堂

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安土城

そして坂本城築城の6年後に信長の安土城が完成しています。世界的に見ても安土城ほど見事な城はないと宣教師フロイスも大絶賛したという名城です。

完成のお披露目会には光秀も当然参加したでしょうし、安土から狼煙があがれば琵琶湖を船で渡り駆けつけたであろうことも容易に想像できます。

織田信長の天下統一事業を象徴する安土城は、戦闘よりも権威を見せつけるために築かれた城で従来の城とは性質が異なり「天守」ではなく「天主」と書くのも特徴の一つです。

日本の城は安土城以前と以降とに分けられるほどで安土城以降の城は「近世城郭」と呼ばれています。

※日本のお城の多くは、「中正城郭(=山城)」と「近世城郭」に大別できます。中正城郭は山を削り作られたお城で、全体が土でできています。一方、近世城郭はその多くが平地に建てられ、石で作られています。

「本能寺の変」の際に焼失してしまった安土城へはJR琵琶湖線の安土駅で降りて徒歩で20分ほどで行くことが出来ます。

安土城

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丹波亀山城

中国地方攻略のために丹波を平定し坂本城の次に光秀が居城としたのが亀山城です。

亀山城は保津川と沼地を北に望む小高い丘に築かれており立派な天守があったそうですが今は城は残っておりません。

築城にあたっては城づくりの名手、藤堂高虎が縄張りを務めました。五重の立派な天守が造営され明治初期に撮影された古写真で当時の姿を見ることが出来ます。

亀山城は明治維新の後に廃城処分となり所有者が転々としますが紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手し現在に至ります。

宗教施設なので気軽に見学するにはちょっと入りずらい雰囲気ではあるのですが、すれ違う方に挨拶すると挨拶を返してくれたのでおそらく大丈夫なのでしょう。

心配な方は受付できちんと見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣なども見学することが出来るそうです。JR嵯峨野線亀岡駅から徒歩で5分で行けます。

丹波亀山城 石垣

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谷性寺(こくしょうじ)・光秀寺

そしてJR亀岡駅から京阪京都交通バスに25分くらい乗ると明智光秀が本能寺に向かう際に祈願した寺で「光秀寺」とも言われている谷性寺(こくしょうじ)があります。

ここには光秀の首塚があり、織田信長を本能寺で討つ決意をした際、不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授けたまえ」と誓願したといわれています。

山崎の合戦に敗れ坂本城へと向かう際に命を落とした光秀を介錯した溝尾庄兵衛が近臣に託し谷性寺に光秀の首を運び葬ったと言われています。

そして明智光秀の家紋といえば桔梗です。谷性寺と隣接する「ききょうの里」では家紋となっている桔梗が多数栽培されており光秀を偲ぶには最適の場所となっております。

光秀を想い、いつのころからか桔梗が植えられるようになり今では6月下旬から8月頃まで境内一帯が桔梗で彩られるようになりました。

愛宕山、明智越

JR亀岡駅から保津川を渡ってしばらく歩くと「愛宕山」へ通じるハイキングコースの入口があります。

明智光秀が本能寺の変で織田信長を討つ際に愛宕山へ登って武運を祈願し、おみくじを意中のクジが出るまで3回引いたと言われています。

そして「愛宕百韻」という連歌を催したことでも知られています。その際に光秀が詠んだ「時は今、雨が下知る、五月かな」という句に謀反の決意が込められているという説があり、「とき」とは明智光秀の出身の土岐氏を表し「雨が下知る」を「天が下」として「今こそ土岐氏の一族である私が天下を取る時だ」という意味だと解釈されています。

この愛宕山へ通じるハイキングコースは京都と亀岡を結ぶ重要なルートの1つだったとされており、深草から小栗栖(おぐるす)へ抜けるこの道は「明智越」と呼ばれています。

愛宕山の頂上に登ってみたいと地元の方に聞いたら3、4時間はかかるとのことでした。気軽には登れないのでしっかりと登山する覚悟で臨みましょう。

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明智戻り岩

そして亀岡から大阪方面へ向かう法貴峠の旧道に「明智戻り岩」と呼ばれる大きな岩があります。光秀が信長の命で羽柴秀吉の援軍として中国へ向かう際に、この岩の前で折り返して本能寺へ向かったとされています。

光秀の心中は分かりませんが、実際に彼が歩いたとされる道を歩き、その地を見ることで何かを感じることが出来るかもしれません。

天王山 山崎の戦い

光秀の史跡が多い亀岡ですが、亀山城を築城した丹波平定からわずか2年ほどで本能寺の変が起きます。

どんな心境の変化があったのでしょうか。丹波を平定したときは信長は「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛し、光秀も「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだし、そのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と、信長への熱い感謝の文を書き、別の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり、信長を崇敬している様子が見られるほどだったと言います。
そんな光秀がなぜ信長を襲ったのか。永遠の謎と言っても過言ではないでしょう。

本能寺の変の後に秀吉が中国大返しで早急に引き返してきて、山崎の天王山で天下分け目の戦いをして光秀が敗れたのは有名な話です。

「三日天下」というのはこの時の光秀を指して揶揄して言われている言葉ですが、実際は本能寺の変で天下を取ってから13日経っていたそうです。

天下を分けるほどの重要な戦、光秀にとっても進退を決める重要な戦であった天王山。

天王山に登ると今も秀吉の陣跡を見ることが出来ますし、実際に秀吉が腰を掛けたと言われる石などが残っています。

山から見下ろすと光秀が陣を張った場所や、光秀の娘ガラシャが居城にしていた「勝竜寺城」なども確認することが出来ます。

光秀と秀吉がまさに天下をかけて激突した山崎周辺には光秀の史跡が多く残されています。

特に「大山崎町歴史資料館」や「勝竜寺城」に山崎の合戦についての資料が多く展示されているので知識を深めるには最適だと思います。

まずはそこで知識を深めてから散策ルートを決めて登山と歴史散策を同時に楽しむのが良いかもしれません。

天王山よりみた山崎合戦地

勝竜寺城の模擬櫓と虎口跡

小栗栖 明智藪 明智光秀の最後

山崎の合戦で秀吉に敗れた明智光秀は最期の時を迎えます。

光秀の最期としてよく耳にするのは「小栗栖で農民の竹やりで突かれ自刃した」というものです。

これは「明智軍記」など後世の編纂ものによって語られた内容が巷間に広まったようです。
調べると京都市伏見区の石田駅の近くに小栗栖という地があり、藪で竹やりに突かれた事から「明智藪」と言われている場所もありました。

要所に明智藪と書かれた看板があるので印に従って歩くと「明智藪」と刻まれた石碑があり詳しい解説も記されていました。

解説には光秀は当地を支配した信濃出身の飯田氏の一党に討たれたと書かれていました。

光秀の最期の場所は諸説あるようで当時は「小栗栖」と特定はされていなかったようです。

最期の地は醍醐か山科あたりとの説もあり、真相は明らかになっておりません。

「本能寺の変」と同義語のように汚名として常に語られる明智光秀という男は、本当に悪人なのだろうか。

心から尊敬し慕っていたと思われる主人、信長を討とうと思った理由は何だったのだろう。

そんな事を思いながら明智光秀の関連スポットをいろいろめぐってみてはいかがでしょう。

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