アイヌ民族 アイヌ人とは?歴史と特徴、縄文人、日本人との関係、その現在

アイヌ人の歴史と特徴 現在に至るまで

江戸時代の末期まで、北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、その広大な土地の大半にはアイヌ人と呼ばれる民族が住んでいました。

彼らは長い間独自の文化を保っていましたが、明治維新以降に次第に日本に吸収・統一されていきました。

現在でもアイヌの子孫と自覚する人々が数万人いると言われていますが、独自の民族性はほぼ消滅しています。
彼らは一体どのような人々だったのでしょうか。

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アイヌ人は縄文人の生き残り?

縄文時代に日本列島に住んでいた縄文日本人の多くは、列島の広い範囲に住んでいましたが、大和民族(和人)に圧迫されて次第に北方へ移動し、現在の東北地方北部や北海道、樺太、千島列島に渡りました。彼らの子孫がアイヌ人だとされています。

一方、沖縄地方などの南方に渡った人々は、琉球民族の祖先だと言われています。

遺伝学的な解釈

アイヌ人と遺伝的に最も近いのは、沖縄系の日本人だとされています。その次に近いのは、日本列島に広く住む日本人です。

アイヌの人々は比較的体毛が濃く、二重まぶたが多かったため、過去にはアジア系以外の系統だとする主張もあったようですが、近年の研究でアジア系の人種だとほぼ確定しました。

アイヌ人の生活

アイヌ人は茅葺きの建物に住み、主に狩猟・採集・漁業で食べ物を確保していましたが、農耕も行っており、麦、ソバ、豆などの雑穀を育てていました。自然と共存した穏やかな生活を送りつつ、樺太・北海道・千島列島を中心に、私たちの想像よりはるかに大きな文化圏を築いていました。

彼らは身の回りの多くに神が宿っていると考えていました。また、熊を育てて殺して食べていましたが、「神様から贈り物を頂いた」とみなして熊の魂を送る儀式を行っていました。このことから、アイヌ人たちの自然への尊敬の念、謙虚な信仰心の強さがうかがえます。

18世紀以降には、千島周辺にロシア人の宣教師が現れた関係で、キリスト教に入信するアイヌも現れました。

アイヌ人は文字を持っていなかったため、伝承などはすべて口述で受け継がれていました。
代表的なものとしては、ユーカラと呼ばれる叙事詩があります。

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実は交易も得意

アイヌ人は広範囲にわたる貿易圏をもち、様々な人々と交易をしていました。樺太を経由してロシア人、千島列島を経由してカムチャツカ半島原住のイテリメン族、南は日本人と、幅広くモノのやり取りをしていました。

日本人との貿易では、アイヌ側から動物の皮・鮭・昆布などを渡し、日本側から・鉄製品・米・木綿などを輸入していました。

アイヌ人と和人との闘い

アイヌは古代から大和民族に追い立てられて徐々に北へ移動した経緯があります。そのため、和人と幾度となく衝突しています。

14世紀ごろから、徐々に大和民族が北海道最南部(渡島半島)に移住し、積極的にアイヌと交易を始めます。その中で、蠣崎氏((かきざきし)のちの松前氏)が台頭し、現地での貿易を独占的に支配するようになります。

アイヌ人は、最初は和人商人たちと自由にやり取りしていましたが、貿易相手を松前氏の仲間に限定され、選択権を失っていきます。

交易が盛んになるうち、アイヌ側でも商売を統括するいくつかの部族長が現れました。かれらは縄張りや利益を巡って対立を始めます。一部の部族長は和人寄りの姿勢をとり、殺し合いも含む抗争となります。このような状況に、和人側の思惑が絡んで、大きな紛争となるのです。

1457年には、商品の品質を責められて怒った和人の鍛冶屋がアイヌ人の客を殺したことがきっかけとなり、アイヌ人の不満が爆発し、武装衝突がおこりました。(コマシャインの戦い)

1669年には、北海道でアイヌ人との交易を管理していた松前氏と、和人の強引な商売方法に怒ったアイヌ人たちの間で大規模な衝突が起きました。(シャクシャインの戦い)

1789年にも、労働者階級となり経済的に苦しんでいたアイヌ人が、和人商人への不満を募らせて蜂起する事件(クナシリ・メナシの戦い)が起きています。

これらの戦いでアイヌ側がすべて日本側に敗北しました。そのため、貿易の力関係は日本優位となり、徐々に松前氏やその御用商人が一方的にモノとモノの交換レートを決めるようになります。

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アイヌ人の日本吸収と貧困

19世紀ごろから、世界的な帝国主義の風潮により、アイヌ人に危機が訪れます。北からロシア帝国が樺太や千島・北海道への進出をもくろみ、それに日本存亡の危機を感じた明治日本政府が、本格的に北海道などの領有化を進めました。

1875年の千島・樺太交換条約で日本政府は正式に北海道・千島列島を日本領とし、日本人の入植を勧めて大規模な開拓を行わせました。多くのアイヌ人たちが日本人に土地を強制的に接収され、猟場を追い出されるなどして、生活の糧を奪われていきました。

また、樺太や北千島などに住んでいたアイヌ人は、一部がロシア国籍となりました。

彼らの中には生きていくため、自らの家族を日本人と結婚させる者も多く出たため、次第に日本人とアイヌ人の混血が進むことになります。

また、千島列島には、土器を使い、和人と直接交易を行わないなど、独自の文化を持った千島アイヌの人々がいました。しかし、第二次世界大戦での日本の敗戦で千島がロシアに占領されたことで、その多くが北海道内や日本本土に移住し、日本人と同化していきました。

同化政策

1899年には北海道旧土人保護法が制定され、ようやく貧しい生活を強いられたアイヌ人に農業をすすめ、土地を提供し、農具を貸し出す救済政策がとられ始めました。しかしすでに肥えた土地は日本人が使っていたため、政策の効果は限定的でした。

ただ、北海道各地に日本式の学校が建設され、多くのアイヌ人の子供たちが通い始めました。彼らのうち優秀な者は、教員などに採用されるものも出始めます。

つい数十年前には原始的な狩猟・採集生活をしていたのに、あっという間に近代日本の生活に適応していった彼らの柔軟性には驚かされます。

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金田一京助(きんだいち きょうすけ)

失われてゆくアイヌの言語・文化・生活に興味を示し、本格的に研究を始める日本人が現れます。

金田一京助は岩手県生まれの学者です。東京帝国大学を卒業後に言語学者の道を志し、研究対象としてアイヌ語を選びます。

本来のアイヌ語を話せる長老たちを訪れ、アイヌに伝わる物語や唄を聞き取ってまとめました。
金田一はアイヌの人々から話を聞くとき、常に敬意を払って丁寧に接したとされています。

また、アイヌ人少女の知里幸恵(ちり ゆきえ)を東京に招いて、アイヌ語を日本語に翻訳する作業を支援しました。ついで彼女の弟である知里真志保(ちり ましほ)を援助し、東京帝国大学まで卒業させました。
彼はのちにアイヌ語の学者として、国立大学の教授に就任することになります。

文字を持たないアイヌ文化にとって、金田一らがまとめた記録は画期的かつ貴重な史料となっています。

アイヌ人の現在

現代日本では、自らをアイヌ人と自覚する人々が北海道で2万人程度、またアイヌの子孫とされる人々が、東京近辺に1万人以上いるとされています。

しかし、アイヌが日本に統合され、旧来のアイヌ人と日本人との混血が進んでいる状況で、アイヌ人と日本人を明確に区別することは現実的に難しくなっています。

調査を行う際にも、祖先の誰かがアイヌ人だと考える人々の、自発的な感覚に基づく対応がなされており、全容を把握する事は極めて困難となっています。

しかし、アイヌ文化を復興、継承していこうとする運動が生まれており、自治体も支援しています。今後もこれらの動きが発展し、貴重な民俗性が守られることが期待されています。

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